第70話:それぞれの動向
草木も眠りにつく深い夜、満天の星々が大地を仄明るく照らす。白銀に瞬く恒星達は、地界で眠る人々の微睡みを保障するとともに夜行性の動物達の活動を促進させる。
耳が痛くなるほどの静寂が大地を包み、夜風が日中の熱気を冷ますように吹き抜ける。羽虫の鳴き声が何処からともなく届き、夜を求める者達の蠢動が音として確立される。
純白の外壁に青い屋根。雲を貫くほどの高さで聳える王城は、月光の下でもその存在を大地に知らしめる。悠然と佇むその様は、宵闇の中でもハッキリとその形を保ち、月光を全身で浴びる外壁が城下の町に神聖な光を降り注ぐ。
そんな王城の中でも最も高い位置まで伸びる尖塔の屋根の上。鋭利に伸びる青屋根の先端では、一人の少女が夜風に吹かれていた。
黒髪の一部を茜色に染め、猫のように大きな瞳は優しく垂れる。その中に輝く紅色の瞳は眼下に広がる人間の町を優しく見守り、背中から伸びる三対六枚の翼がその身体を覆い隠す。
10代の人間の少女のようにしか見えない彼女は、その雰囲気から決して人間ではない事を対外に見せつける。薄い空気と冷たい風の中で悠然と佇む彼女は、無言で北方の空を見た。
一見して普通の空。薄雲が疎らに浮かぶその先には満天の星が絨毯のように広がり、無限の彼方まで広がる、無限の宇宙空間が両腕を広げて抱擁する。しかし、彼女の瞳に普通の景色は映らない。紅色の瞳が金色の聖眼にすり替わり、見えない力を見透かす。
背中に背負う三対六枚の翼と瞳に宿る金色の聖眼、それは彼女が天使である事の証である。その翼の数はそのまま彼女の天使としての階級の高さを表すとともに、彼女に宿る聖眼の強さを暗に示す。
穏健な星空は、彼女の聖眼を介してみれば不穏な宵闇として映る。近い将来に訪れるであろう戦いの香りと、現在進行形で行われている天使と悪魔の抗争を反映したそれは、10,000年前に集結した神龍大戦の再来を確信する。
「魔物を連れ出しましたか。聖獣と魔物はそれぞれ天使と悪魔のなりそこない。どれだけ数を用意しようとも、天魔の理の前に抗うことはできません。それにも関わらず呼び寄せたということは、あの子なりの目的があってのことでしょうか?」
それにしても、と彼女は真剣な瞳で睥睨する。
「逸脱者が二人……そして、その二人がいずれも英雄の領域に至っていますね。なるほど、ルシエルが考えそうなことですね。フフッ、面白くなりそうですね」
さて、と少女は小さく息を吐く。可憐な相好が良い一層輝くように微笑むと、月光と満天の星々の下で一人優雅に舞う。その様は湖畔に佇む白鳥のように上品であり、大海を遊泳するイルカのように優しかった。
「私もそろそろ支度をするとしましょう。或いは、10,000年ぶりの再会を祝えるかもしれませんね、アルピナ?」
稚さと妖艶さを両立させる可憐な微笑は、誰にも見られることなく宵闇に溶け消える。
【輝皇歴1657年6月21日 プレラハル王国レインザード】
数日前に発生した魔獣侵攻。英雄の力で大事なく駆逐されたそれらの功績と恐怖心は、時の流れと共に風花の一途を辿る。襲撃も撃退も日常の中に潜む突発的な一コマとして昇華されてしまった民草の前では、態々特別な出来事として記憶されるほどの珍しさを亡失してしまっていた。
襲撃されて当たり前、撃退されて当然。そんな思考が彼らの心の奥底に潜在的に構築され、無意識の油断として山積される。そんな彼らは、いつしか侵攻に対する免疫力を失いつつあった。
平和で長閑で華やかで清潔な町。広大な山々を背中に背負うレインザードの町を、一組の男女が歩く。身軽な服装に煌びやかな瞳。観光地特有の空気に染められた好奇心を隠すことなく振り撒く二人の仕草は、この町においてそれほど珍しいものではない。
英雄の様に注目を浴びることも無ければ、魔王のようにその存在を危険視されることもない。ありふれた観光客の一欠片としてのつかの間の休息を貪るように、二人は仲睦まじく歩く。
「ねぇねぇ、イルシアエル?」
「どうした、テルナエル?」
姉弟のように仲睦まじく並び歩くその姿は、見る人の心に和らな心地よさを無意識に与えてくれる。なまじ、二人揃って絶世の美男子美少女であるだけに、その存在感は引き立つ。下心を以て視線を奪われる者と無数にすれ違うことを露と知らない二人は、露店で買った食べ物を口に運びながら何気ない日常の会話を交わす。
「僕達がこの町に来た理由ってなんだっけ?」
「龍魂の欠片があるかもしれないって情報を貰ったからね。私達の仕事はそれだっただろ? それとも、英雄と呼ばれている人間を探してみる?」
英雄という呼称を耳にしたテルナエルの動きが止まる。その存在に思うところがあるのか、その童顔が歪み、狂気と猟奇が綯交された不釣り合いな相好が浮かび上がる。
「英雄? 巡る因果に囚われただけで神の子に及んだと勘違いしてるだけの蒙昧なヒトの子でしょ? あんなの、いくら探したってなんの意味もないよ」
「フフッ、テルは随分と英雄を嫌ってるんだな」
「別に嫌ってはないよ。ただ、その存在価値がよくわからないだけだよ」
やれやれ、とその乱暴な感想に微笑を浮かべるイルシアエルだったが、彼の筋金入りの英雄嫌いを知悉している彼女は、それ以上の追求を止める。
「……っていうかさぁ。レインザードってルシエル様がいる町じゃなかったっけ?」
テルナエルは、首を傾げながら手に下食べ物を頬張る。口腔全体に齎される美味に目を見開いた彼は微かに意識をそれに偏らせつつも、耳ではしっかりとイルシアエルの答えを待った。
「たしかにそうだ。態々私達が来なくても、ルシエル様に任せればよかったかもしれないわね。でも、忘れた?」
何を、と問い返したくなるテルナエルだったが、瞬時に一件の大事件が脳裏に過ぎる。それはつい最近起きた一大事件であり、ここ10,000年の間崩れることがなかった盤石な天魔の関係に亀裂が走る要因だった。
「シャルエル様のこと? 確かに、アルピナ公達が動き出したとあれば、万全を期しても足りないくらいだけど……」
「まずは、ルシエル様を探さなければな。あの御方は聖力の秘匿が上手すぎて探すのも一苦労だからな」
「でも、僕達が来てることはすぐに知られているんでしょ? 僕達でも探せないことくらい向こうも知悉してるだろうし、待ってれば向こうから接触してくるんじゃないかな?」
暢気だね、と呆れつつもその可能性を捨てきれないイルシアエルは、彼を頭ごなしに否定することはできなかった。ルシエルの性格なら、その程度の配慮や気配りは当然の事の様に熟してくれそうな信頼すら抱いていた。
ルシエルとイルシアエル達の天使としての階級を比較すれば、ルシエルの方が高い。本来であれば、下位者であるイルシアエル達の方から積極的に接触を図らなければならないが、ルシエルはそうした上下関係を嫌う傾向にあることを二人は知っていた。寧ろ、常に同一位階であることを意識しているかのような親しみやすさすら持っている様だった。
故に、二人はルシエルに一入の信頼感で期待するのだった。
「それで、それまではどうするの?」
「私達同士は精神感応でいつでも連絡ができるからね。どちらかがルシエル様と接触するまでは別行動でもいいだろう」
「そうだね。それじゃあ、また何かあったら連絡しようか」
折角の地界文化を満喫したい二人は、レインザードの町を隅から隅まで堪能するべく、本能と好奇心の赴くままに別行動をとるのだった。
次回、第71話は12/7 21:00公開予定です




