第64話:平和
翌日、澄み渡る快晴の下でアルバートは目を覚ます。いつもより随分遅い起床だった。日輪は高く昇り、普段と変わらない平和な喧騒が窓の向こうから漏れ聞こえる。
それほどまでに魔王衆との戦いで疲労が溜まっているのか、それとも精神的に落ち込んでしまっているのか。恐らくその両方が無意識下に働きかけてしまったのだろう。微かに重たい頭を振って、彼は身体を伸ばす。凝り固まった筋肉が伸張されて痛む。しかし、その痛みがまた心地よかった。
「あっ、アルバート。おはよ~」
丁度目を覚ましたカーネリアが、眠たげに目を微睡ませながらアルバートを見つめる。乱雑な頭髪がその気怠さをそのまま表現したように遊び跳ね、大きな欠伸が部屋の壁に跳ねて掻き消える。
「おはよう、カーネリア。その感じだと、よく眠れたみたいだな」
「う~ん、なんとかね。アルバートも同じ? てっきり、負けた悔しさで独り反省会してるかと思った」
「さすがにな。昨日あれだけしたんだ。もう十分だろ?」
さて、とアルバートはベッドから降りる。徐に窓辺に歩み寄ると、眼下で行き交う民草を見つめる。誰もが、四日目の魔物騒ぎなど知らないかのように振舞う。普段と同じ暖かさ、普段と同じ賑やかさ、普段と同じ色どり。どこを切り取っても平和な日常でしかなかった。
それは決して悪いことではない。寧ろ、いい知らせだろう。しかし、当事者として魔物騒ぎの最前線にいた彼の瞳にその光景は奇妙に映る。彼の予想では、多少でも不安の空気が町の色を染め変えているはずだった。
逸脱者の世界的信頼性をその身に背負い続けているが故の思考は、逸脱者の敗北が齎す世の中への影響を正確に把握しているといえるだろう。それにもかかわらず彼の眼下では平和な光景が広がる。予想登攀する光景に、彼は脳裏に疑問符を浮かべる。決して恐慌状態であってほしいわけではないが、これほど平和な光景を見せられると昨日の後悔が馬鹿らしくなってくるもの。
町は無事か……。あの魔王達は町そのものに興味はないって事か?
「ど~したの、アルバート?」
神妙な顔持ちで外を見るアルバートに、カーネリアは軽やかな声で問いかける。いつの間にか整容を済ませた彼女は、見慣れた装いのまま彼と肩を並べる様にして窓の外を見る。
「いや、随分平和だと思ってな。あれだけの魔物が眼鼻の先まで迫ってたんだ。たかだか三・四日でこうも平和な日常が戻ると思うか?」
「う~ん……。でも、実際に攻め込まれたわけじゃないし、私達が相打ちで追い払ったって思ってるんじゃない? それに、ずっと気負ったままで生きるのって結構息苦しいしさ」
持ち前の陽気な態度と前向きな思考で軽く受け流すカーネリアは、可憐な笑顔でアルバートを見る。その笑顔は不思議とアルバートの心を安心させ、その発言に説得力を持たせる。
「まあ、お前がそう言うんならそうなんだろ。それで、今日はどうする? 魔物やら魔王やらがいるとわかった以上、やることは山積みだが……」
「だよね~。事の重大性とか考えたら国に報告すべきだと思うけど、アルバートってそういう繋がりあったっけ?」
「ないな。となると、まずはこの町の長に話を通すのが先決か」
手間がかかるな、と彼は溜息を零す。そもそも、アルバートはこうした裏方の事務仕事が嫌いな節がある。魔獣退治を生業にしていた頃は何も考えなくてよかったのも、彼がそれを好きでいられた要因の一つだろう。しかし、やらねばならない以上それをやるしかないのだ。カーネリアに丸投げしたい本能を理性で押し殺して重い腰を上げる。
「取り敢えず外に出てみるか。ここ数日、外の空気を吸ってないからな」
軽装に必要最低限の所持品、そしてもしもの時の為の剣を腰に携えて二人は扉を潜る。数日ぶりの外気と陽光を求める二人は、軽快なようでどこか重たい足取りで外へ出る。
レインザードの町は今日も普段通りの平和な街並み。透き通る青い空の中では純白の雲が映える。質素な単色の建物達は町の長い歴史を表すかのように風情を持ち、堅牢な石造りの外壁は長年の雨風で凹凸をつけている。
その背後には雲を突き抜けてさらに高く伸びる山々が聳え、その頂点には雲と同色の雪が帽子となっていた。吹き降ろす寒風が肌を刺し、王都周辺とは異なる肌寒さを与えてくる。僅かに薄い空気は日常生活を営む上で支障になるほどではないが、それでも体感的に少々息苦しい。
アルバートは、数少ない酸素を求めうように大きく息を吸い肺胞一杯に新鮮な外気を取り込む。数日ぶりの外気というのはやはり心地よい。室内にいる間はそれほど気にならなかったが、いざこうして外に出てみればあの部屋がどれだけ息苦しかったかがよくわかる。
アルバートとカーネリアは、それぞれ行き交う人々の姿に視線を動かす。誰もが平和の日常を謳歌し、牧歌的な中にも喧騒を交えた独特な雰囲気を築いていた。アルバート達の姿に気付く者、気づかない者も様々で、声をかけるもかけないも自由自在だった。心配する者もいれば気遣いからか別の話題を広げる者もいる。それは、二人がよく知るレインザードの町そのものだった。
平和だな。
改めて身に沁みて平和を実感したアルバートは、感慨深げに心中で吐露する。先日の戦いがこの平和の維持にどれだけ寄与したのかは定かではないが、それでもまったく無駄に終わったわけではないと勝手に信じつつ平和に微笑む。
「そろそろ行こうか」
「そ~だね、どこ行こっか?」
特別何処かに用事がある訳でなく、ちょっとした気分転換と物見遊山程度のつもりでしかない。その為、何処に行くかは何も考えておらず、たまにはそうして何も考えずに歩くのも悪くないと思っていた。
故に、二人は特に目的地も考えず適当に足を進める。目につく店に立ち寄り、おいしそうな香りに誘われて食事を頬張る。
その最中にも数えきれないくらいの人達とすれ違い、交流を重ねていく。逸脱者としての彼らに話しかける人もいれば、個人としての彼らに話しかける者まで様々。共通しているのは、誰もが二人に対して負の感情を抱いていないということ。それに巣食われるように、二人は心穏やかに言葉を交わらせる。
「テルクライア様とクィットリア様のお陰で我々は助かっておりますので」
そう語るのは何処にでもいる普通の老婆。名前も知らなければ話したこともない。たまたま遭遇しただけの他人だが、その言葉は温かかった。
「いえ、俺達は普段と同じように戦っただけですので。それより、町が無事でよかったです」
「こちらこそ、英雄様方のお陰があってこそのものです」
こうして何気ない会話を所々で交えながら、二人は歩き続ける。あるところでは大勢の人たちに囲まれて身動きが取れなくなりながらも、二人は心身を癒すように穏やかな心持ちで歩いた。やがて、人通りがへったところまで来た時、二人は揃って小さく息を吐く。やれやれ、とばかりに通りを眺めながら壁にもたれ掛かった。
「流石に疲れたな」
「そ~だね。でも、これくらい平和な方が却って気楽でよくない?」
「ああ。……さて、そろそろレインザードの長の所に行くとするか。あまり遅くなって手遅れになるわけにはいかないからな」
魔王衆に関する情報共有とそれへの対応策の考案と周知のため、二人は町の中央に聳えるひときわ大きな建物を見上げる。英雄や逸脱者としての名声が齎す権限を行使してでもこの危険性をってもらう必要があると本能的に察知している二人は、神妙な面持ちでそこへ向かうのだった。
次回、第65話は12/1 21:00公開予定です




