第63話:魔王
【輝皇歴1657年6月18日 プレラハル王国レインザード】
見覚えのない天井。つい先ほどまで広がっていたはずの自然が消失し、代わりに現れ出たのは人工的な圧迫感。背中と後頭部は柔らかなものに支えられ、首から下もまた同様に何かに包まれている。
朧げな意識をどうにか覚醒方向へ促し、そこで改めてアルバートは自分が何処かのベッドの上に横たわっていることを知覚する。
一体……何が……?
何も思い出せなかった。アルバートは、重く沈み込む頭をどうにか動かして周囲の様子を一瞥する。その視線の先では、カーネリアもまた同様に首を振ってアルバートの方を見つめていた。彼女もまた同様に覚束ない意識を辛うじて繫ぎ止めながら現状に疑問符を浮かべている。
アルバートとカーネリアは、それぞれ天井を見上げると同時に溜息を零す。何か覚えている様で何も覚えていない。そもそも、ここが何処なのかもよくわからない。何処かの建物の仲なのは確実なのだが、それ以上の情報が何一つ獲得できない。
暫くして、散逸していた記憶の欠片が断片的にも纏まりを帯びてきて彼は徐々にではあるが状況に理解が追いついていく。カーネリアもまた彼に連続するように彼女自身の記憶が整理され、自身が置かれている状況に承知がいく。
そして、その断片的なパズルのピースはやがて連続した一つの体験となって彼らの脳裏の中に蘇る。一体何があったのか、一体誰と出会ったのか、一体何をされたのか。朧げな記憶が確実な記憶となって、彼らの脳裏には感情となって表れる。
ああ、やっと思い出してきた。アルピナに、スクーデリアに、クオン……か。
忌々しさに柳眉を潜め、舌打ちを零しながら天井を見上げるアルバート。カーネリアは、そんな彼の様子を横目で一瞥しながら深く打ちのめされる自身の心に溜息を零す。
これまで多くの魔獣を狩り続けてきた二人。英雄や逸脱者として富や名声を獲得してきた二人は、いつしか万能感と圧倒的優越感の姦計に無意識的に嵌り込んでいたようだった。それが今回の敗北で露呈し、必要以上の屈辱感となって蝕んでいるのだった。
その時、その部屋の入り口扉が徐に叩かれる。軽快かつ一定のリズムで三度叩かれるそれの後、扉の奥から現れ出たのは彼らがよく知るゲラード・ルグランド。心配をそのまま顔面に張り付けたような相好は、厳つい外見と似合わずなんとも言えない感情を齎す。ゲラードは、意識を取り戻した二人を交互に見つつ徐に声をかける。
「二人とも、漸く目を覚ましたか」
「ええ、つい先ほど。ご心配おかけしました」
無理やり体を起こしたアルバートは、ゲラードに対して深々と頭を下げる。それを見たゲラードは、慌てたようにアルバートを寝かせて二人を落ち着かせる。
「もう丸三日も寝っぱなしだったんだ。無理するな」
三日というあまりにも長い時間意識を失っていた事実を知ったアルバートとカーネリアは、揃って絶句する。それほどまでに、あのスクーデリアという人間の力が圧倒的だったのだろうか。そうとしか考えられないアルバートは、虚空を握る拳の力が無意識に入る。血が出そうなほど爪が食い込み、疼痛を生じさせる。しかし、そんな事も気にならないほどに彼は感情の潮流に飲み込まれていた。
「一体、何があったんだ? 魔獣の声が聞こえなくなっても一向にお前さんらが帰ってくる様子はねぇ。かと思って様子を見に行ったら二人仲良くぶっ倒れてやがる……」
「魔獣……正確には魔物らしいですが、それと戦っていたんです」
アルバートは徐に記憶を探る様に語り始める。言い訳できない敗北が重く圧し掛かり、息が詰まる様な感覚に苛まれる。これまで勝利の美酒に酔い続けてきたのが改めて実感できることに心中で嘲笑した。
「それはまだどうにかなったんですが、それを従えていると思われる人達と遭遇しまして……」
「それがすっごい強かった……んだと思います。よく覚えてませんけど」
カーネリアもまた曖昧な記憶を探る様に視線を右往左往させる。しかし、どれだけ探ろうとも敗北の瞬間だけはどうしても思い出せない。ざらついた手が脳を撫でているような苦痛が意識を満たし、得体のしれない屈辱感で胸が苦しくなる。
「まぁ、何はともあれお前さんらが無事なのが幸いだな」
軽快な声色で笑うゲラードだが、その心労はかなりのものだろう。英雄乃至逸脱者として崇め続けていた存在が道の存在によって昏睡状態に落とされる。それは、特別な力を持たない人間にとって自らの死と同等の恐怖を与える。
なまじ、アルバートもカーネリアも実績を伴って名声を高めてきた。どこかの道化師の様に、虚勢と噓偽りで成り上がった卑怯者ではない。故に、その信頼は確固たる意志を以て与えられる。それはゲラードが一番よく知るところ。彼らが狩り続けた得た大量の魔獣角を全て受け取ってきた彼だからこその思いだった。
厳つめな風体に合わないゲラードの苦悶が見え隠れする。そんな彼の言葉を嬉しくも悲しく思うアルバートは、本心からそれを否定する。
「いえ……、俺が負けたのは事実ですので。本来であれば殺されてたでしょう。運命に助けられただけです」
それより、とアルバートは話を転換する。窓の向こうから微かに聞こえる町の声に目を向けながら、彼は一息つく。
「町の様子はどうなってますか? 比較的落ち着いている様ですが、俺達が負けたことはとっくに周知されているでしょうし……」
「ああ。流石に三日も経てばある程度は落ち着くだろ。だがな、お前さんらが負けたその日はかなりの騒ぎになってたな。特に、お前さんらをこの部屋に運ぶのに町の中を突っ切る必要があったからな」
あの時は大変だったな、とゲラードは改めて当時を思い返す。敗北した英雄に対する悲しみを爆発させて縋りつこうとする人々や、その様子を面白がって記事にする記者達を始めとする野次馬たち。ごった返して右も左もわからないままに突き進んだあの苦労は二度と味わいたくない。
思い出しただけで辟易とする記憶。しかし、その過去は英雄達の期待を裏打ちするもの。それ程までに英雄達は期待され、その敗北の知らせは民草にとって、処刑の日をを宣告された死刑囚の様に余裕がないもの。不可視の楔は、彼らの心に恐怖や不安を増長する因子となって撃ち込まれる。
英雄達は全人類の希望であり、全人類の願いでもある。故に、英雄を始めとする逸脱者たちはその肩書に因果が巡る。その為、アルバートもカーネリアも揃って因果の円環に入門していた。
そんな理を露と知らないアルバートとカーネリアだったが、それは却って過度な責任を負わなくて済む点で好都合だったりする。それでも、二人は数え切れないほど経験してきた魔獣との闘いを通して、人々の命を魔居る責任感を朧気ながらに認識していた。そして、後天的にその責任に気付いたがゆえに、二人はその責任に頭を悩ませる。
「申し訳ありません。俺達が負けてしまったせいで……」
「ハハハッ、そんな気に止むこたぁねぇよ。人間、誰しも一度や二度どころか常に失敗と敗北を味わいながら生きてんだ。たった一度の敗北ぐらいでお前達を見捨てたりはしねぇよ」
豪快且つ軽快な笑いは、二人の心に巣食う負の感情を払拭する。不思議と身体が軽くなったような気がして、今すぐにでもベッドから飛び起きれそうな気すらしていた。
しかし、頭に巻かれた包帯がそれを制止する。みたところ頭部以外に目立った傷はない様で、包帯等を巻かれている様子はない。傍の壁に立て掛けられた剣も、見たところ大きな損傷はない様子。アルバートもカーネリアも、一先ずの安心と安全が確保できたことに安堵の息を零す。
「んで、その魔物だったかを従えてる奴は何者なんだ?」
「……何もわかんないですね。どこからどう見ても人間にしか見えないのに、なーんか違うんだよね」
カーネリアは、ゲラードの問いに対して軽快な普段通りの声で答える。しかし、その内実では得体のしれない人物に対する恐怖にも似た感情が渦巻いていた。
「三人組だったのですが、それぞれアルピナ、スクーデリア、クオンと呼ばれていました。何か聞き覚えありませんか?」
「ん~。俺は対して教養がる訳じゃねえからよくわからんな。気になるんなら、他の奴に聞いてみてくれ」
そうですか、とアルバートは俯く。その瞳は光を失ったように混濁し、しかし同時に決して諦めない不屈の闘志が燃え上がっていた。
「魔物を従える存在……魔王……か」
アルバートはポツリと呟く。何気ない一言だったが、どこかしっくりくる気がした。初めて発する言葉にも関わらず、何故これほどまでに違和感なく溶け込めるのだろうか。アルバートは不意に自問する。しかし、その答えが出る様子はなかった。
「魔王? 何か神話にいそうなこと言うね、アルバート? でも、その呼び方いいよね。私もそうやって呼んどこうかな?」
魔王三人衆。人間の生活圏を脅かす巨悪が台頭し、英雄の前に立ち塞がる。世界の命運を左右するであろうこの対立は、アルバートとカーネリアをしてさえ戦慄する。双肩に圧し掛かる重すぎる責任を背負いきれないのだ。
しかし、英雄や逸脱者の因果からは逃れられない。英雄は英雄として、逸脱者は逸脱者としての立場に則って剣を振るわなければならない。これまでは無意識上で達成されてきた因果が、遂に意識の俎上に載った瞬間だった。
次回、第64話は11/30 21:00公開予定です




