第56話:久しぶりの平和
「どうやら、ただのヒトの子の様ね」
「ああ。擬態した天使の可能性も考えられたが、そうではなさそうだ」
安全性を確信した二柱の態度を見て、クオンはホッと胸を撫で下ろしつつ最悪の事態が生じた可能性に憂慮した。
「そうだな。それにお前達が余計なことを口走って悪魔だとばれることも無かったな」
「その時はその時だ。そもそも、ワタシもスクーデリアも正真正銘の悪魔だ。何も後ろめたい事情を持たない以上、態々隠す必要もない」
「それに、たとえ私達がそれを自白してもあの人たちは信じないわ。精々、頭のおかしい人達が訳の分からない事を言っている程度で流すでしょう」
そうだといいがな、とクオンは乾いた笑いを零す。しかし、彼の期待に反して彼女達の予測は正しい。ここ数日天使や悪魔とばかり行動を共にしているため認識が変わってしまっているが、本来であれば天使も悪魔も実在しないのが常識なのだ。その為、いくら彼女らが自身の正体を声を大にして叫ぼうともその先にあるのはほら吹きの称号のみ。魂を見通せる龍人とは異なるのだ。
そして、クオン達は再び歩き始める。森を抜けた為空を飛んでも良いのだが、せめてグルーリアスの目が届かない位置まで移動してからにしようという事で暫くの徒歩移動を再開する。
そんな彼らの背中を遠巻きに見つめながら、グルーリアスは何やら神妙な態度で見据えていた。そして、森の底に落とされた虚空の影に声をかける。
「暗部はいるか?」
彼の声に応える様に、森の草花が風も無く揺れる。体感的に空気の温度が下がったような気がして隊員達は周囲を見渡すが、その視線には何も映らない。何の変哲もない森がただあるだけだった。暗部はグルーリアスの視線にしか映らず、グルーリアスにのみその存在を公にする。
「いかがいたしましたか、ツェーノン様」
「あの旅人を追え。決して悟られるな」
彼の指示に、暗部は反論も質疑もなく了承する。そして音もなくその姿を消した彼らの後には、再び暖かな森の空気だけが残された。
天使に悪魔……か。所詮神話の中だけの架空の存在だが、あの態度……少々気になるな。
さて、とグルーリアスは再び足を進める。彼らの部隊は平和を取り戻したカルス・アムラの森に足を踏み入れるのだった。
【輝皇暦1657年6月11日 プレラハル王国王都】
白を基調とした外壁に四方を囲まれた王都の目抜き通りを歩く三つの人影。その装いは人間が纏うそれと同じである。しかし、その風貌に相反して真に人間である者は存在していない。悪魔、そしてそれと契約を交わした人間。神の子として数多の世界を管理するヒトの子の上位者たる存在がありふれた日常の一コマに紛れ込む様にしてそこにいる事を、行き交う人々の内どの程度が気付いているだろうか。或いは、誰一人として気づいていないだろう。聖眼や魔眼、龍眼といった特殊な瞳を持たない無垢のヒトの子では、彼女達神の子を見定める手段は存在しない。下位者である彼らには上位者である彼女らを彼ら自身の自由意志で観測することは許されないのだ。
そうして、誰にも気づかれることも訝しがられる事も無くヒトの子の町を堪能する悪魔達は周囲を眺めながら陽気な態度を溢出させる。
「大戦が終結してから暫く経つが、ヒトの子の文明社会も随分様変わりしたようだな」
「平和な期間が10,000年も続いたのよ。それなりに回復した方じゃないかしら?」
「回復?」
現代に生まれ、過去の文化文明については虚飾された神話でしか知らないクオンは純粋な疑問を問う。そんな彼の問いかけに答える様に、アルピナとスクーデリアは自身が経験した当時の人間社会を懐かしむように語り始める。
「過去の大戦が地界を遍く破壊してしまった為に一切の記録も記憶も残されていないが、当時は現在を上回る高度文明が発達していた」
「あの頃は私達神の子も普通に周知されてたものね。そのお陰もあってか、当時のヒトの子達はそれなりの技術を持っていたわ」
神の子はヒトの子とは隔絶された超常の力を有する上位存在。それが広く周知されていたということは、その力も同じく認知されていたということ。その力が彼らのすぐそばにあるということは、その力に対抗できるだけの何かを欲するのが自明の理。力で彼女達神の子に及ばないのであれば、技術でそれを補えばいい。それが、ヒトの子として生まれた持たざる者達の精一杯の努力だった。
その結果生まれたのが現代を遥かに上回る技術革新であり、歴史と共に失われてしまった功績である。
「大戦から身を護るために築き上げた技術が大戦によって滅ぼされるのは皮肉なものだが、所詮はヒトの子が作り上げたもの。どうなったところで、ワタシ達の知ったところではないがな」
「神の子はヒトの子の管理が仕事だろ? だったら、そういう文明の発展や衰退なんかに介入したりするのか?」
地界の管理者、或いは神の意志の代行や抑止として存在する神の子としての感覚はヒトの子が持つそれとは大いに異なる。それは人間が羽虫に対して情を持たないのと同じであり、天使や悪魔にとってヒトの子とはその程度の価値でしかない事を如実に知らしめる。
「ヒトの子としての道理を外れた異常な文明発達にはそれなりの介入をすることはあるが、しかし必ずしもする必要はない」
「私達の義務はあくまでも魂の管理。ヒトの子の生活自体には不関与が基本よ。それでも、中には人間社会に溶け込んで文明に染まったりすることもあるけど、今の子達はどうなのかしらね?」
10,000年の空白期間に産まれた神の子と関わりがない手前それに関する知識が一切ない彼女らは、久しぶりの地界を楽しむ。
ヒトの子を寄せ付けない圧倒的な力を持つが故に、アルピナもスクーデリアも認識の欠如に対する危機感を持ち合わせない。例えそれが自らに何らかの不都合を齎す可能性が高かったとしても、その程度の些末事では自分たちの脅威にはならない事を知っているのだ。
その目抜き通りは数え切れないほどの人で賑わっている。両脇には肩を並べる様に露店が競り並び、色鮮やかなテント屋根が売り上げを求めて手招きする。喧騒は止むことを知らず響き渡り、衆目は他者の装いや視線などまるで気にしないとばかりに四方八方へ迷子になる。当然、久し振りに地界の文化文明へ触れた二柱の悪魔も例外ではない。彼女達はクオン達から離れ、色とりどりの露店に目を奪われたように迷い込みその姿を消す。
「まったく……自由だな、あいつらは」
見えない背中を人込みの何処かに投影しながら、クオンは緊張感なく呟く。その声色は平和だった頃の彼と遜色なく、師を殺害された事を始めとする精神的苦痛はそれなりに和らいだ様だった。
固く張りつめた心がすっかり溶けきり束の間の平和と休息に心暖められたクオンは、独り目抜き通りを散策する。数日ぶりとなる人間との交わりは自分もまた人間であったことを思い出させ、ここ数日の環境が異常だったことを再認識させる。
天使に悪魔、神や龍といったそれまで神話の上でしか語られてこなかった不確実な要素の確実性を突きつけられたクオンの心は、彼自身が思っている以上に消耗していた。
しかしまあ、先の戦いで随分消耗したからな。偶にはこうした息抜きも大切か。それに、アイツ等は10,000年振りだったかの再会の様だし、二柱きりの時間があったところで問題ないか。
二柱を探そうと金色の魔眼を開いたクオンだったが、途中でそれを止める。瞳が再び琥珀色に戻ると、彼はアルピナ達が進んでいった方向とは反対側に足を向ける。そして、そのまま目的も無く平和しか知らない民草の間をすり抜けて王都を散策するのだった。
次回、第57話は11/23 21:00公開予定です




