第498話:名前
ふぅ、とクィクィが一先ずの戦闘終了を実感して一息付いた頃、そんな彼女の興味と意識を向けられたアルピナはというと、相変わらずな姿勢振る舞いを維持した儘、〝天巫女〟エフェメラ・イラーフと対峙し続けていた。
彼女を彼女足らしめる蒼玉色の瞳を猫の様に可憐に輝かせ、傲岸不遜な笑みを携えた、そんな彼女は何処と無く人間離れした雰囲気を感じさせる。憖、それと対峙するエフェメラが実に人間らしい慈愛の聖女然ととした態度振る舞いをしている事もあり、実に対極的だった。
そして、丁度その時、彼女達の上空から一つの影が舞い降りる。それは、鈍色の長髪を優雅且つ柔らかく靡かせる長身の美女の姿によって作られた陰であり、詰まる所彼女達が良く知ったるスクーデリアが到着した事の合図だった。
「遅くなってごめんなさいね」
「なに、問題は無い。丁度、今、状況が変わりそうな所だ。それに、君が此方に来る迄は、お互い話を進める積もりは無い様だからな」
さて、とアルピナは改めて、前方のエフェメラ及び上空に浮かぶ主席枢機卿エール・デイブレイクこと智天使級天使アウロラエルを一瞥する。片や神聖で清らかな聖職者としての振る舞いを持ち、片やそうした神聖さの根源とも言える天使の一柱。何方もこの場に於いて恥ずかしくないだけの格式を有した存在であり、一切この状況に飲まれている様子は無かった。
「役者も揃った。そろそろ始めるとしよう。 いや、君も早く始めたくてウズウズしているのだろう?」
違うか?、と小首を傾げ、エフェメラはアルピナに問い返す。何を言っているのかサッパリだ、と言いたげなそれは、本当に何も知らされていないかの様な純朴なものであり、消して嘘偽りを吐いている様には感じられない。それこそ、クオンでさえ、エフェメラの態度振る舞い及び発言には一定の信頼性があると感じてしまう程であり、アルピナの発言の方が荒唐無稽な様に感じられてしまう。
しかし、それでも、まさかこの場に於いてアルピナが誤った発言をするとは思えない。彼女とはそれなりに短い付き合いでしか無いが、それでも、この短い旅路の中でそれなりに親睦を深めてきたつもりではある。色々と振り回されたばかりだった気もするが、それと同じくらいには彼女の事を見てきたつもりなのだ。
だからこそ、彼は、果たして何方の態度乃至発言を信頼してよいのかが一瞬だけ分からなかった。片や同じ人間、片や悪魔とは言え仲間。何方にも相応の親和性があり、故に相応の信用を無意識の上に重ねてしまう。
それでも、これ迄の旅を通して、彼の心はそれなりに固まって来た。只の人間として平穏に生きていた頃とは異なり、それなりの死線を潜り抜けてきた結果、彼も彼なりに成長を遂げ、一人前として相応しいだけの主体性を確立していた。
その為、彼は信じる道は一つしか無かった。一瞬だけ心が揺らいでしまった事を恥じるかの様に、彼の心はアルピナに対してのみ向けられていた。エフェメラという人物に対して同族的親和性を抱けるとは雖も、最早彼の心は靡く事は無かった。
確かにアルピナは悪魔だが、しかし最早彼女が悪魔だろうとそうでなかろうと変わらない程度には、彼はアルピナに対して深く強固な信頼の紐帯を結んでいた。それこそ、只の友人関係という枠組みでは収まり切らない程に密接なそれは、仮令如何なる衝撃があろうとも揺るがないと確信出来る。
クオンは、状況を静観する。余計な口出しをして場を乱す訳にはいかない、と本能がそれを教えてくれていた。何故かは分からないが、アルピナとエフェメラの間には余計な口を挟むべきではない様な気がしたのだ。
「あら、何の事でしょう?」
そんなクオンの配慮を余所に、エフェメラは相変わらずのらりくらりとアルピナの言葉を躱す。その飄々とした態度は、とても国家の最上位階級を兼任する聖職者とは思えない程に責任感の欠片も感じられず、何方かと言えば低俗な罪を犯したコソ泥の様な意地悪さすら感じられる。
「やれやれ、何時迄その態度を続ける積もりなのだか……。この状況だ。もう何も隠す必要は無いだろう? 姿形も声色口調も大して変えず、その程度でもヒトの子を騙すには何も不都合は無いが、ワタシ達神の子がそれに騙される筈も無い。況してや彼我の間柄だ。尚の事だろう、セツナ?」
エフェメラでは無い別の名。久し振りに呼ぶその名前は、心地良い懐かしさと忌々しい悲しみが綯交ぜされたもの。呼びたくないけれども呼びたい。それがアルピナとしての思いであり、それはその声色や顔色の如実に表れていた。何時もらしくないしおらしさは、その見た目通りな女の子らしいもの。何処と無く気弱な、そんな甘さが滲み出ていた。
そして、そんなアルピナの態度に対して、セツナと呼ばれたエフェメラは、一瞬だけ虚を突かれた様な反応を見せる。つい先程迄飄々とした態度振る舞いをしていたのがまるで嘘の様なそれは、正しくこの出来事が彼女にとって予想外だった事の表れを表す。
だが、同時に、その相好には微かな喜びが透けていた。まるでそう呼ばれる事を待っていたかの様な、或いは懐かしさを感じている様な、そんな色香をその顔色は物語っていた。




