第49話:抵抗
それから暫くして、プレラハル王城の中でも最高高度を記録する尖塔の屋根先端に一人の少女は立つ。
黒髪の一部は茜色に染まり、三対六枚の純白の羽が柔和に揺れる。中一対で上半身を覆い、下一対で下肢を覆い隠した彼女は、その茜色の瞳を金色に輝かせて西の空を見つめる。柔和に垂れた猫のように大きな瞳で遠くに薄ら見えるカルス・アムラの森を見つめた彼女は、その方角から放たれる濃密な聖力と魔力の衝突に懐かしさを覚える。王国全体を覆い隠す曇天の発生要因であるそれに一切臆する事無く、彼女は事の顛末を朧気に予測する。
シャルエルが何かしたようですね。……この反応からして天楔融合でしょうか? それも、ヒトの子ではなくスクーデリアとの融合ですか。天魔の理で禁止されていないとはいえ、あの子にしては随分と思い切った決断をしましたね。しかし、一体誰に似たのでしょうか?
少女は微笑を浮かべつつ、猫のような金色の瞳を冷たく輝かせる。全てを見透かす冷徹な瞳は、敵への賞賛とも味方への失望ともとれる曖昧な香りを仄めかせる。しかし、彼女の心情がそれらの内どちらであろうとも、何れにせよあまり好意的な印象は抱いていないようだった。
雷が王城のすぐ近くに落ちる。音と衝撃が内臓を揺さぶる様に轟き、耳の中ではその残滓が痛いほどに反響する。しかし、それでも彼女はその平穏な相好を一切崩す事無く地平の先を見つめる。
天楔融合が生み出す驚異的な力と、悪魔公が放つ絶対的な力。共に何者をも寄せ付けない究極の力の一つではあるが、少女には何一つ影響を及ぼさない。それは、暗に彼女がアルピナや融合後のシャルエルと同等の力を有している事の証左でもあるのだ。
少女が背負う三対六枚の翼は、天変地異の風に煽られ靡き、低い雲が彼女の肌に触れてフッと霧散する。彼女の眼下には、轟く雷鳴と烈火の如き激情で揺れる大地に板挟みにされた民草による天使に救済を求める悲痛の声が魂の叫びとなって立ち上っていた。
しかし、彼女は己に対する呼び声であるそれらには一切気を止めることなく一瞥する。
やはり、ヒトの子というのはつまらないものですね。偽りの歴史に対する盲目的な信仰は、たとえそれが梨の礫にされようともその責任を己の信仰心の欠乏によるものと恥じる愚かしいものでしかありません。あわよくば利用できるかも、と思いましたがそれ相応の価値を見出せるとは思えませんね。
ならば、と彼女は己の最も遠く最も近い存在であるアルピナの存在が過る。
何故、あの子達はこれほどまでにヒトの子に執心するのでしょうか? 今も昔も、あの子達は変わらずヒトの子の社会に積極的に関わろうとします。
草創の時代から現代にいたるまで続く無限に思えるほどの長い時間。その内のほんのわずかな期間にしか存在しないヒトの子。神の気まぐれと神の子の存在意義捻出のために創造されたそれらに対する愛着心は、彼女の魂からとうに消し去られていた。
「ヒトの子が私達に及ぼす影響。それが本当に存在するのだとしたらこの私に見せてもらいましょうか、アルピナ?」
不敵な冷笑を浮かべた彼女は、青屋根の尖塔の先に立って地平の彼方に微笑むのだった。
【輝皇暦1657年6月10日 プレラハル王国カルス・アムラ古砦内部】
閉塞した室内に嵐のような突風が吹き荒れる。強大な聖力と魔力の鍔迫り合いは、この世に存在する凡ゆる物理法則を無視した超常の空間を生み出す。強制的に生み出されたその特殊な環境は、最早クオンでは真面に立ち入る事すらも許されない至高空間。全ての世界に存在する全ての天使の中でも指折りの強者であるシャルエルと、全悪魔を統括する悪魔公たるアルピナ。古の神龍大戦ですらそれほど多くなかった好カードに、アルピナは己の魂の中に燻る好戦的な血が昂り唸る。
「これほど動いたのは久しぶりだな、シャルエル」
「平和になって早10,000年。更に言えば、嘗ての強者は神龍大戦で失われた状態。俺としても、これほどまでに興奮させる戦いはいつ振りになるだろうな? 尤も、俺一人の力じゃないのは残念だがな」
シャルエルは、苦笑しつつ己の魂を見透かす。綯交されたスクーデリアの魂が放つ存在感に自己の主導権を奪い取られそうになりながらも、彼は体裁を取り繕いつつアルピナに戦いを仕掛ける。
戦いが長引くとともに消耗される己の体力と気力と聖力。減少するそれらに相反するように上昇するのは、内部で暴れ狂うスクーデリアの意志。封印と融合の二重の壁を凌駕して届くのは、彼女の意志にして彼女の怒り。
アルピナと戦いつつ、シャルエルは内部からの攻撃を膨大な聖力で無理やり抑え込む。ルシエルのように搦手を得手とするならば、この状況で再度封印術を施して沈静化することも可能だろう。しかし、シャルエルはそれら搦手を不得手とする直情型。故に、力業でスクーデリアを抑え込んでアルピナと戦い続ける。
クソがッ。やはりアルピナといいスクーデリアといい、何故悪魔は相性を覆す⁉ 確かに、この二柱は俺より僅かに生まれは早いが、だからと言ってこれだけの差はないだろ?
狼狽しつつその現実に対する憤懣を心中で吐き捨てるシャルエルは、微かにだが戦いに対する集中力が削がれる。それは、クオンからしてみれば辛うじて認識できるかどうかの僅かなものだった。しかし、アルピナにとってみれば非常に大きなスキとなる。不意に現れ出たその大きなスキに、彼女はその理由を本能的に察知する。
なるほど、スクーデリアが抵抗を始めたか。やはり、シャルエルの聖法では限界があったという事か。これなら、クオンが介入できる余地も増えるな。
アルピナは、シャルエルの攻撃を遇いつつクオンの側に寄る。彼と肩を寄せ合うように並び立つと、低い背で彼を見上げる。
「クオン、そろそろ君の力を必要とする時が来るだろう。ワタシがチャンスを作る。そこに合わせて、君はその遺剣でシャルエルをスクーデリアから引き剥がせ」
「剥がすとは言っても、一体どうやって……?」
「案ずるな。方法はジルニアが教えてくれる。君はそれを信じて剣を振るうだけだ」
襲い掛かるシャルエルを反対側の壁に蹴り飛ばしつつ、アルピナは見たことがない現象に対して確信をもって宣言する。クオンがそれを実行できるかはまだ誰も知らない不明瞭なもの。しかし、アルピナは心の表層から魂の最奥に至る全てを以て確信を抱く。何故、彼女がこれほどまでに確信をもって信頼を与えてくれるのかをクオンは理解できない。それでも、彼女がそうして信じてくれていると不思議とできそうな気がしてくるのだ。
「わかった。やってやるさ」
「フッ、その調子だ。やはり、君はワタシの予想通りの色を見せてくれる」
髪を靡かせてさりげないウィンクと共にアルピナは戦場に戻る。その小さな大きい背中を一瞥したクオンは、改めて遺剣に目を落とす。右の手に握られたそれは心臓の鼓動のように淡い龍脈を放ちつつ、来るべきを今か今かと待ちわびていた。
アルピナは当然のように知っていて、遺剣も同じように理解している。……残るは俺の覚悟だけということか。
その時、クオンは遺剣から自身の魂に向かって強力な何かが逆流するような感覚に包まれる。それは、己の身体にとって不純物のようでありながらもそうではない様に感じる。それはやがてクオンの体内を循環すると、彼の心の奥底に鎮座する魂と一体化する。それが齎す莫大な情報量は、彼の脳裏に瞬間的に記憶される。
天楔融合を解除する術……なるほど、そうか。
遺剣から新たに授けられた力を胸に秘め、クオンは眼前で繰り広げられている超常の戦いを睥睨する。つい先ほどまでは決して届かない遥か彼方の存在だと思っていたそれ。今でもその本質は変わらないが、それでも気持ちだけは異様なまでに冷静でいられた。
よしッ、やるか‼
クオンは地面を強く蹴りつけると、アルピナとシャルエルとの闘いに参戦するのだった。
次回、第50話は、11/16 21:00公開予定です




