第469話:ヴェネーノの到着
兎も角、とクオンは改めて眼前の敵に意識を向ける。人間としての価値観が今尚抜け切らない彼にとっては得体の知れない恐ろしさであり、それ処か理解の範疇から逸脱してさえいるそれ、即ち智天使級天使ラムエルに対して、彼は身を強張らせて冷汗を流す事しか出来無かった。
確かに、今のクオンは、悪魔の力を得て魔法を行使し、そこに龍の力を重ね合わせて龍法や龍魔法を使い熟せる様になった。しかし、そうは言っても、やはり眼前の天使が使用する聖法に対しては、如何しても理解と納得が追い付かない。
一応、聖法も魔法も龍法も龍魔法も、その根源となる力が其々異なるだけであり、原理原則は基本的には変わらない。その為、極一部を除いて、聖法にしろ魔法にしろ龍法にしろ龍魔法にしろ、技自体は互換性が存在するのだ。
故に、今のクオンでも魔力や龍脈や龍魔力で代替すれば、ラムエルがこうして使用している聖法を魔法や龍法や龍魔法として再現する事は出来る筈なのだ。そう考えれば、何も理解出来無い要素など存在しないだろう。
とはいえ、そこはやはり、経験が全てを物語る世の中。ほんの少し前——それは、人間としての時間感覚で生きるクオンの視座からしても同様——に初めて魔力という存在を知覚し、そこから漸く神の子という存在をした彼にとって、仮令原理原則の上では非常に簡単な事柄だとしても、思考の上では必ずしもそうなるとは限らないのだ。
これ迄彼が触れ合ってきた天使の力は、カルス・アムラの森一体での争い、レインザード攻防戦、ベリーズでの争いときて今回が四例目。たったこれだけの経験で、その全てを然も当然の様に飲み込んで習得出来る筈も無いのだ。
分かり易く狼狽し、困惑し、今にも圧し潰してきそうな重圧の中で、今直ぐにでも圧し潰して欲しいとすら思ってしまう。勿論、アルピナがそれを赦してくれる道理が無い事は承知の上だし、契約上それが出来無いのも承知している。何より、育ての親でもある師匠を殺害された事に対する天使種全体への敵討ちという最大の目的の為にも、こんな所で朽ち果てる訳にはいかなかった。
さて、とクオンは改めて息を吐き零す。陰鬱とした敗北感上に何時迄も囚われている様では、勝てる戦いにも勝てなくなってしまう。
況してや、幾らアルピナが直ぐ側にいて必ず守ってくれるとは言っても、相手は智天使級天使。これ迄戦ってきたシャルエル、ルシエル、バルエルと同格の存在であり、武闘派という点に着目すればシャルエルと同等と見做せる。
そして何より、幾ら当時は経験が浅かったとはいえ、カルス・アムラに於けるシャルエルとの戦いに於いて、クオンは殆ど彼と戦えていなかった。殆どアルピナ一柱で戦っており、クオンが介入したのはとどめの一撃の身。
その為、無意識の内に心が敗北の道標に従いつつある様だった。ルシエルやバルエルと戦っている時には殆ど感じなかった、自分勝手な負け癖とでも言うべき、そんな為体だった。
「余り気負い過ぎない事だな、クオン。幾らラムエルがシャルエルと同等の実力だと見做せるとはいえ、当時と今では君の実力も大きく異なる。それに、漸く役者も揃う様だからな」
アルピナは、チラリ、と一瞥する。宝石の様に煌びやかで可憐な蒼玉色の瞳が向けられる空からは、一柱の男が降り立ってきていた。それは、栗色の髪を短く切り揃えそれと同色の瞳を鋭利に輝かせる悪魔ヴェネーノであり、アルピナの精神感応を頼りにたった今到着した所だった。
「随分と遅かったな、ヴェネーノ?」
「幻影のお陰で遠くからでもラムエルの姿が見えるとはいえ、魔眼が機能しないんだ。この状況にしては頑張った方でしょ?」
それより、とヴェネーノは話題を本筋へ戻す。別に急いでいる訳では無いのだが、少しでも早く本筋に戻したかった。そうでもしなければ、アルピナからの愚痴が止まる事は無いだろうし、そんな状況に陥ってしまうのは、はっきり言って嫌だった。アルピナを面倒だと拒絶する訳でも無ければ老害だと侮辱する訳でも無いが、少なくともそういう気分だけは確実だと本能が訴えていた。
「如何して態々僕を呼び寄せたんだ? ラムエルの相手なら、ワインボルトとクオンを護りつつでもアルピナ一柱で十分じゃない?」
違った?、と首を傾げ乍ら、ヴェネーノは問い掛ける。自身を含む種族全体を統括する公爵級悪魔に対する絶対的な信頼の表れに則った疑問であり、彼女を知る者なら誰も口を揃えるであろう常識的疑問。決して当てずっぽうでも無いし、何なら非常に正鵠を穿いた視座でさえあるだろう。
とはいえ、仮令それが事実だとしても、アルピナには考えがった。それは、今この状況に対する短期的視座に基づいた現場的判断であり、同時に、この先に訪れるでああろう戦いに備えた中期的視座に基づいた種族全体の統括者としての判断でもあった。
故に、彼女は何時もより少々真面目な口調声色になって、ワンボルトとヴェネーノを其々一瞥する。今から言う事をシッカリと把握しろ、と言わんばかりのそれは、悪魔全体を統べる悪魔公に相応しい威厳であり、同時に中間管理職らしい悲哀も何処かに見える様な気がした。勿論、何時も通りの傲慢さや冷徹さや御巫山戯要素も、忘れてはいなかったのだが。
次回、第470話は2/23公開予定です。




