第390話:エフェメラとエール
「……また新たな救済の声ですか?」
はい、とエールはエフェメラの問い掛けに対して申し訳無さげに首肯する。それでも、立場上到底無視する訳にはいかない、という事もあり、彼女は遠慮無くその仕事の束を執務机の上に載せる。
そしてエフェメラもまた、立場上それを断る訳にもいかず、表面上は天巫女としての神聖で清楚な態度振る舞いは維持しつつも心中でそれに溜息を零しつつ、仕方無くそれを受け取るのだった。
しかし、ずっと書類仕事を続けるのも身体が変に疲れてしまうもの。故に彼女は、気分転換を兼ねる様に手にしていた仕事を机の上に放り投げると、溜まった疲れを癒す様に大きく息を吐き零した。
「随分お疲れの様ですね」
「いえ。この程度の事、今も尚不安と恐怖に苛まれている信徒の皆様と比べれば如何という事はありません」
それより、とエフェメラは話を転換する。現状頭を悩ませている魔王出現とその被害に関する諸々の混乱への対策もそれ相応に急を要するが、しかしそればかりに傾倒している訳にもいかない事情もある。
というのも、幾ら天巫女を頂点に据えた聖職のヒエラルキーが定められているとは雖も、しかし必ずしも一枚岩で存在し続ける事が出来るという訳では無い。やはり、何処かしらに綻びは生じるものだし、不和も生じる。そしてそれを始点に何か邪な企みが暗躍する事だってあるし、それによって思い掛けない損失を被る事だって有り得る。
つまり、一見して盤石なヒエラルキーが存在している様に見えても、背中は何時だって死角なのだ。だからこそ、それが表面化しない内に事前の対処が必要になって来るし、それが出来る様に具な観察が必要なのだ。
「例の件、あれは如何なりましたか?」
例の件とは、彼女が今最も向き合わされている最大の問題。宗教が心の拠り所であるという前提があり且つ民草がそれを原理原則として妄信しているからこそ、それを悪用する形で蠢動している悪質な問題。
それは、一部聖職者による非信徒に対する犯罪行為。それも、ちょっとした暴言暴行の範疇に留まらず、それこそ異端審問の程度を超えた私刑に相当する程に大規模で凶悪なもの。
果たしてそれが何時何処で何を切っ掛けに始まり、果たしてどれだけの人達が犠牲になり、それによりどれだけの経済的乃至人道的損失が生まれたのか? その詳細は未だ完璧には把握し切れていないが、しかし今直ぐにでも撲滅しなければ、それは国家の威信に関わり兼ねない程である事は確実。
だからこそ、エフェメラは、宗教ヒエラルキーの頂点、詰まる所最高権力者に相当する責任者として、その問題を魔王襲来と同程度の優先度と見做して解決に当たろうとしていたのだった。
「はい、それに関しましては、此方を御覧下さい」
そう言ってエールがエフェメラに差し出したのは、つい先程机の上に乱雑に積み上げた仕事束では無く、それとはまた別の書類。近年稀にみる原材料不足が原因で紙が不足しがちな昨今の国際情勢の中でもそれは全て紙製の資料で揃えられており、その重要性が窺い知れる。
それを受け取ったエフェメラは、静かにその内容を黙読する。頭が痛くなる程に無数の文字が並んでいるが、しかし最早慣れたもの。この年齢でそんな事に慣れてしまうのは何とも物悲しいものだが、しかし立場故の宿命だと諦める他無いだろう。
軈て、その資料の全てを一読し終えたエフェメラは、資料を机に置きつつ大きく息を吐き零す。そして、相変わらずの可憐で御淑やかな微笑みを携えた儘、彼女はその内容を吟味する様に静かに言葉を紡ぐ。
「成る程、〝邪悪なる異端の審問者〟ですか。中々面白い呼び名を自称している様ですね。そして、場所はサバトですか」
サバトは此処プレラハル王国の東方地区にある古い町。これと言って目星い特徴も無い至って普通規模の町の一つでしかないが、それでも如何にか特徴を捻り出すとしたら、やや古い宗教的建築物が他の町と比較して多めという事だろうか。
それでも、彼女がその名称を読んで直ぐにその場所を想起出来たのは、偏に彼女がこの国の運営を担う公僕だから。或いは、宗教の頂点として、凡ゆる町に出向き信仰を広めたり信徒の声に耳を傾けてきた為。
果たして何方とも付かないが、恐らくその両方なのだろう。寧ろ、その方が都合が良い。尤も、そんな些細な違いはこの際如何でも良い事柄でしか無いのだが。
兎も角、サバトを拠点に怪しい宗教団体が蠢動しているという事実を確認出来た。それが公的な情報筋から齎されたという事の方が何倍も大切だし、重要である。
「はい。しかし、その〝邪悪なる異端の審問者〟なる団体の詳細迄は掴み切れていません。ですが、これ迄確認されてきた魔女狩りに絡んでいる事はほぼ間違い無いとの事です」
そうですか、とエフェメラは静かに頷く。確かに、資料を読む限りでは彼女の目が届かない内に色々と問題を起こしている様だった。しかも、それが表沙汰に成らない様な根回しも入念に行われている。
加えて、今回こうして漸く尻尾を掴めた事だって偶然に偶然が積み重なっただけという徹底振り。
だからこそ、エフェメラもエールも、其々《それぞれ》その問題の悲惨さでは無くそれを為した団体の凶悪さや手強さに対して、一抹の不安と警戒心を抱くのだった。
「……この機会、逃す訳にはいかないですね」
「しかし、魔王出現に伴うこの混乱下で同時に処理をするのは些か厳しいかと」
エールは現実的意見を零す。勿論、彼女だって出来る事なら全てを同時に片付けてしまいたい。しかし、身一つ魂一つの人間体である限り、同時に処理出来る事柄だって限られてくる。それが魔王に異端審問にという厄介過ぎる問題二つなのだから、それは尚の事だろう。
だが、不思議とエフェメラの顔に曇りは無い。まるでそれが不可能ではないとでも良い気な程に穏やかであり、或いはそれなりの対応策を構築済みなのかも知れない。
だからこそ、エールは頭上に疑問符を浮かべつつエフェメラの瞳を見据える。茜色と橡色の瞳が交差し、不思議な力強い紐帯が相互に結ばれる。
「ふふっ、問題ありませんよ。それは貴女だって分かり切っている事でしょう? 寧ろ、サバトに赴いた方が、我々としても彼方側としても好都合ではありませんか」
「……それもそうですね。では、此方から連絡しておきましょうか?」
「いえ、態々《わざわざ》伝えなくとも十分でしょう。それに、昨版、私からあの子には連絡を入れておきましたので」
畏まりました、とエールは恭しく頭を下げ、軈て部屋を後にする。そんな彼女に慈愛を含む眼差しを向けつつ、エフェメラは物思いに耽るのだった。
そして、彼女のそんな思考は、軈て王城の外へと飛び出し、遠く離れた場所にいる大切な存在へと向けられる。
尤も、果たして今何処で何をしているのかは全て手に取るように分かるし、これから何を為そうとしているのかも全て予想が付いている。その為、この先に待ち受ける再会に対して、彼女は微かな喜びを見出すのだった。
そして何より、彼女がその表向きの思考の背後に包み隠している本質的な目的意識が間も無く成就する予定でもあった。だからこそ、もう間も無く手が届くその欲望の光に対して、彼女は相好を綻ばせるのだった。
しかし、彼女は油断と慢心が身を亡ぼす最大の要因だと誰よりも知悉している。故に、そんなだらけそうになる心を理性で無理矢理律する事で、最後迄油断無く事に当たろうと気持ちを引き締めるのだった。
「さて、もう直ぐですね。私も準備を始めるとしましょうか。あの子と会うには、やはりそれに相応しいだけの支度が必要ですからね」
次回、第391話は11/6公開予定です。




