第389話:目覚め
「お陰様でな。……やれやれ、まさかこのワタシが君の催眠魔法程度に落とされる羽目になるとはな」
「貴女が悪いのよ。これは周りへの被害も考えずに天魔の理を逸脱した貴女に対する罪と罰。寧ろ、この程度で済んだ事を感謝して欲しいわ」
朝風にロングコートとミニスカートの裾を爽やかに靡かせつつ、しかし何処か不満げな相好を携えた儘、アルピナは舌打ちを零す。対してスクーデリアはというと、淡色のドレスワンピースを静かに靡かせ乍ら、そんな彼女に向き合いつつ軽やかに遇う。
二柱の間に静かな時が刻まれる。片や全悪魔の頂点に君臨する悪魔公。片やそんな悪魔公の補佐を務め、時には代行さえも務める侯爵級悪魔。決して穏やかとは言えない、しかし一触触発とも言えない、そんな奇妙で複雑な感情の糸が双方向に紡がれる。それにより、その場は他の何者をも寄せ付けない二柱だけの空間を形成するのだった。
そして、そんな無言の時が暫く経過した後、漸く口を開いたのはアルピナだった。それで、と尋ねる彼女の声色と口調は、これ迄通りの至って普通なもの。昨日見せたあの不安定で理性を亡失した暴徒然としたそれではなく、幾星霜の過去から飽きる程見つめてきた懐かしさと頼もしさに満ちるものだった。
「状況は?」
「未確定情報で良ければ、クオンの凡その居場所と首謀者は掴めたわ」
ほぅ、とアルピナの無感情な相好が一瞬の内に花開く。たった一晩眠らされていただけにも関わらず、よもやそこ迄状況が好転しているとは思ってもみなかった。
それに対してスクーデリアは、そんな彼女の逸る気持ちを面白がる様に微笑み、そんな気持ちに応える様に、その詳細を提示するのだった。
「首謀者はラムエルとアウロラエル。居場所はこの国の東方地区よ」
「東方地区……確かワインボルトがいるのもその辺りだった筈だが……」
そういえば、とアルピナは思い出す様に言葉を紡ぐ。神龍大戦後の平和な時期に誰が何処で何をしていたのかを彼女は直接目にした機会が無く、全て言伝でしか把握していない。その為、如何しても曖昧な表現になってしまう。
だが、それでもその記憶は思いの外正確であり、仮令数千年前の事であろうともこうして正確に覚えられているのは、偏に彼女が神の子と呼ばれる無限の時を生きる上位存在であるが故だろう。たかが前日の食事内容すら覚えられない人間如きとは到底比較にならない記憶力を有している様だった。
「えぇ、そうよ。私がシャルエルに、クィクィがルシエルに、ヴェネーノがバルエルに其々《それぞれ》天羽の楔で囚われていた事を考えれば、恐らくワインボルトも同様。果たしてクオンが攫われた事と関連しているのかは定かではないけれど、これ迄の状況を踏まえれば恐らく関連しているでしょうね」
そうだな、とアルピナは首肯する。未だ確定した内容では無い事で嬉々とするのは時期尚早が過ぎるという事もあり、加えて未だクオンの無事を確保出来た訳では無いという事もあり、如何しても素直には喜べない。それでも、表面上に仮初の微笑を携え、微かな希望の灯火を見出せた事に対して安堵の感情を浮かべるのだった。
そして、するべき事が決まれば、後は実行に移すのみなのは言わずもがな。故に、彼女は早速とばかりに行動に移そうと気持ちを切り替える。
「百聞は一見に如かず、という。早速、向かうとしよう」
アルピナは、冷酷さと傲慢さを抱き合わせた猟奇的な笑顔を浮かべつつ、そう発した。それに対して、そうね、とスクーデリアもまた氷の様に冷たい微笑みと狼の様に妖艶な眼差しを携えて、それに同意する。そして、二柱は人間達の視線を避ける様に屋根の上から飛び降りると、窓から宿の中へと戻るのだった。
*** ***
そうやって、二柱の悪魔が情報共有と行動予定の擦り合わせをしている頃、人間達の生活を土台する枢要である王城もまた、それなりの活動を始めていた。
未だ夜が明けてから数時間とも経っていないにも関わらず、しかし王城の活動性は真昼間の城下町と余り変わらない。それ程迄に、彼彼女らは休む事を許されず、国家の安寧の為に身を粉にして働く事を余儀無くされていたのだ
そして、それは当然の事乍ら組織の末端人員だけに限った話ではない。中心乃至枢要に腰を据える大御所たる面々もまた、背負った責任を果たすべく、誰よりも忙しなく働かされていた。
勿論、それは四騎士も含まれる。それ処か、四騎士という役職はその立ち位置が非常に特殊であり、言い換えれば幅が非常に広い為、他の誰よりも仕事が山積する事態に陥っていた。
だからこそ、四騎士の中で最年少、そして国教の教皇である天巫女を兼任する少女エフェメラ・イラーフは、自身の執務室で大量の事務仕事に頭を悩まされていた。
暁闇色と黄昏色を混ぜ込んだ髪を後頭部で一つに纏め、聖職者然とした純白色の羽衣を身に纏い、彼女は椅子に深く腰掛ける。猫の様に大きな茜色の瞳は優しく僅かに垂れ下がり、その御淑やかで神聖な雰囲気をより慈愛深く強調する。
彼女が今現在処理しているのは、自身を頂点に据えた宗教ピラミッドの大部分を占める教徒達からの救済の声。昨日の魔王出現に伴う悲痛な叫びと救済の願いは、その全てが最終的に彼彼女らの心を土台する宗教へと集約され、誰も彼もがその拠り所に希望を見出していた。
だが、宗教は宗教であり、決して奇跡を具現化する魔術や奇術の類では無い。故に、どれだけ長文で救済を希われ様とも、どれだけ感傷的に支援の到来を声高らかに望もうとも、しかし無から有が生まれる事は無い。あくまでも、それを心の拠り所とした上で、究極的には自身の力で勝ち取らなければならない。宗教とはあくまでも防具であり、武器の類では無いのだ。
だからこそ、エフェメラは、そんな教徒達からの悲痛な救済の声を天巫女として相応しい視点で的確に処理していく。否定も肯定もせず、あくまでも彼彼女らの現状を受け入れつつその想いを認める事で、彼彼女らの自立を促していく。宛らカウンセリングの様な手法であり、悪く言えば詐欺師の様なあくどいもの。
しかし、彼彼女らがそれを望まれるのであれば、彼女に出来るのはそれだけだった。他の四騎士の様に物理的に障害を排除出来る訳ではない彼女ならではの手法であり、或いは長期的視座で彼彼女らの自立を促す事を考えれば、これが最も適切な回答かも知れない。人に授けるに魚を以てするは人に授けるに漁を以てするに如かず、という言葉通り、究極的には公助から自助への移行を目指すべきなのだ。
そんな時、不意に執務室の入口扉が数度ノックされる。コンコン、と重厚な音が軽快なリズムで奏でられ、彼女はそれに促される様に顔を上げる。
そして、彼女がその音を生んだ主に対して入室を促すと、それを待ってました、とばかりに一人の女性が顔を覗かせる。
「イラーフ聖下」
そう呼びかける彼女の名は、エール・デイブレイク。プレラハル王国の国教に於ける首席枢機卿であり、立場上は天巫女エフェメラ・イラーフの次席に当たる。加えて、四騎士エフェメラ・イラーフの側近も兼任しており、凡ゆる方面に於いて彼女を支える右腕的存在でもある。
橡色の瞳を鈍く輝かせ、同色の髪を仄かに揺らし、彼女は静かに入室する。髪や瞳の色と対極する純白色の羽衣は、彼女が聖職者である事を示す何よりもの証であり、所々に鏤められた緋色のアクセントは彼女が枢機卿である事を教えてくれていた。
そんな彼女の両手には、更なる仕事が山積みにされており、未だ未だ仕事が終わらない事を非言語的に教えてくれていた。それ処か、未だ未だ仕事は増えるぞ、という暗黙の威圧がそこから零れている様な気さえする始末だった。
次回、第390話は11/3公開予定です。




