第388話:勘付きと対応策
『如何やら、その様ですね。所で、一つ貴女にお伝えしなければならない事がありまして——』
セツナエルは、冷たい声色とはっきりとした口調でそれをラムエルに伝えようとする。ラムエルはそんな彼女からの精神感応に対して、彼女が言葉の背後に潜ませている感情を読み取る事で、微かな緊張感を静かに自覚する。
『スクーデリア達が勘付いた様ですよ。恐らく、明日には其方に到着するかと思われます』
セツナエルの口から齎された、勘付かれたという事実。それに対して、ラムエルは一瞬だけだがその穏やかさと緊張感を両立していた相好を崩してしまう。驚きが前面に押し出された彼女のそれは、天使という凡ゆる生命より上位に君臨する特異な存在に相応しい落ち着きとは正に対極する様なもの。
だが、そんな感情的な彼女の相好は、しかし刹那程の時間で元に戻される。理性によって手繰り寄せられたその落ち着き様は、彼女の相好をこれ迄通りの知的で理性的な天使らしいそれへと綺麗に変質させてしまうのだった。
『そうですか。しかし、それでは如何致しましょうか? 彼女らには、個別戦闘では一度勝った事があるとはいえ、私一柱では幾ら取引材料が存在していたとしても到底敵う相手ではありませんが……』
ラムエルは、率直な感想を漏らす。決して自己を過大評価する事無く、或いは相手を過小評価する事無く、現実を的確に捉えて包み隠さず打ち明ける。
抑本来、誰だって自分の弱さや敗北感を自覚するのは辛い所。況してやそれを他者に知られる事など恥辱屈辱以外の何物でも無いだろう。故に、誰だってその事実は本能的に隠そうとする。野生動物が天敵に自身の急所や死角を隠そうとするのと本質的には同じである。
だが、ラムエルはそれを為した。生半可な精神力では決して為す事の能わない成果だろう。それこそ、手放しで称賛を贈れる程には、それは仮令彼女が天使という特殊な種族であっても素晴らしい事だった。
だからこそ、セツナエルはそんな彼女に対して柔らに微笑みかける。そして、持ち前に穏やかでお淑やかで可憐な声色と口調を満面に携えて彼女の心を包み込む。
『ふふっ、心配ありませんよ。こんな事もあろうかと対応策は用意してありますので。なので、貴女は当初の予定通りお願いします』
では、とセツナエルは一方的に精神感応を切断する。普段の御淑やかで物腰柔らかな態度振る舞いを考えれば何とも乱暴なものだが、しかしこれこそ彼女の本性だったりする。こういう所はアルピナ公に似てるんだよなぁ、とラムエルは心中で溜息を零し、しかしだからこそ取り分け不満を抱く事も無く、改めて意識を背後の荷車へと向けるのだった。
如何やら一見して、荷車の様子に不審な所は無い。どれだけ聖眼を凝らそうとも、そこには変わらない荷車が連なっており、轍を踏み締める音だけが延々と続いているだけだった。
だが、それはあくまでも表面的な話に限られる。より深く聖眼の眼差しを潜り込ませる事で漸く映る荷車の内部事情は、つい先程迄とは少々異なっている様だった。
……目が覚めたのかな? でもまぁ、だからと言って如何する事も出来無いだろうし、放っておいても問題は無いか。
如何やら、内部で眠らせていた取引材料が目を覚ました様子だった。尤も、その内部で眠っている交渉材料こそ、スクーデリア達が今必死になって捜している人間クオン・アルフェインであり、彼は悪魔の力と龍の力を宿した特殊な体質を持っているからこそ、中で目を覚ましていても何ら不思議では無かった。加えて、元から彼は只一時的に眠らせただけでしかなく、意識を奪い続ける様な仕組みは初めから構築していなかった。
だからこそ、ラムエルはその事実に対して何ら驚く素振りは見せず、只静かに受け流す。寧ろ後で起こす手間が省けた、とばかりに柔らに微笑み、直ぐ近くに迄近付いた人間の町を御者台の上から静かに見上げるのだった。
そして、自身が天使である事や引馬が只の馬では無く聖獣である事が人間を含むヒトの子達に露呈しない様に、彼女は自身と馬車全体に其々《それぞれ》認識阻害の聖法を施して欺瞞構築を施すのだった。
【輝皇暦1657年7月21日 プレラハル王国:王都】
王都上空に突如として魔王が出現したあの絶望的な瞬間から一夜明けた朝。何時もと変わらない日の出を迎え、何時もと変わらない暖かい朝が人間社会に覚醒を促す。
だが、何も知らない日輪と異なり、王都全体は決してその何時も通りな日常を受け入れる事は出来無かった。誰も彼もが沈痛な夜明けを迎え、昨日の悪夢が現実であった事を再認識する。そして、改めて自身が無事だった事に安堵すると共に、何時また同様の被害が齎されるかも分からない現実に恐怖する。
そんな中、王都の中に存在する取り分け特別でも何でもない至って普通なとある宿の屋根の上に、一柱の美女が佇んでいる。彼女は一見して人間の様にしか見えないが、しかし決して人間などでは無く、寧ろ人間社会にとって最大の敵である魔王の内の一柱に他成らない悪魔スクーデリア。
彼女は腰に届く長さで柔らにウェーブを描く鈍色の長髪を朝風に乗せて靡かせ、黄金より煌びやかな魔眼を燦然と輝かせる。上品で賢英な上流階級の令嬢を髣髴とさせる立ち振る舞いは身に纏う淡色のドレスワンピースで一層強調されていた。
そんな彼女は、眼前に広がる城下町を静かに眺めつつ、朝の陽射しを目一杯受ける。とはいえ、別に人間の様に朝の陽射しを受けて体内時計が正常化される訳でも無いし、元から睡眠欲など存在しないし、何より種族的に太陽の光が苦手な為、余り気持ちが良い訳では無かったのだが。
それでも、状況に振り回されて疲労した思考を回復させる為にも、こうした普段しない様な行動というのは丁度良かった。気分転換にもなるし、或いは新たな気付きが得られるかも知れない。何れにせよ、何も悪い事しかない訳では無かったのだ。
そんな彼女は、暫くの間、静かに町の様子を眺める。消せない魔眼を輝かせ、王都に存在する多数の魂を観測する事で、其々《それぞれ》が送る生活を思い描く。何を考え、何を選択し、何を為すのか。それは其々《それぞれ》の魂によって千差万別であり、誰一人として全く同じ生活を送る者など何処にも存在しなかった。
だがそれは決して面白いものでは無いし、寧ろ長年魂の管理業務をしてきた中で飽きる程見てきたものでしかない。それでも、気分転換としての面白味を無理矢理見出す事で、彼女は酷く消耗した思考回路を少しずつ癒すのだった。
そんな時、不意に彼女の背後から足音が鳴る。正確に言えば、屋根に着地した際に生じる衝撃音と表現するべきだろう。決して重たくは無く、しかしだからと言って軽やかでも無く、それは人間一人分程度の重量がしっかりと着地した様な音だった。
「……目が覚めたのね。貴女にしては随分と時間が掛かった様ね、アルピナ?」
スクーデリアは、眼前の城下町に視線を固定させた儘、背中越しに静かに語り掛ける。非常に繊細な、しかし何処と無く妖艶さを兼ね備えて知的な声色であり、大人然とした魅力をそこはかとなく感じさせられる厳かさだった。
対して彼女に呼びかけられた人物、つまり他でも無い彼女の友人であるアルピナは、そんな彼女の言葉に対して感情の機微が読み取れない口調と声色で言葉を返す。憤懣なのか、不満なのか、焦燥なのか、安堵なのか、失望なのか。全てが正解な様で、しかし全てが間違っている様な、そんな不安定で不確実で曖昧な雰囲気を、それは醸し出していた。
次回、第389話は11/2公開予定です。




