第386話:スクーデリアの帰還
【プレラハル王国:王都】
スクーデリアが空間移動の渦の向こうに消失したのを見送ったクィクィ達は、其々《それぞれ》の目的の為に其々《それぞれ》の持ち場へと戻る。アルテアとレイスとナナはカルス・アムラへと帰還し、ルルシエはアルバートの影の中へと潜み、その結果、その場にはクィクィとヴェネーノと彼の背中で依然眠りに落ちているアルピナだけが残された。
さて、とクィクィは改めて息を吐き零す。細く長いアンダーポニーテールに纏めた緋黄色の御髪がそれに合わせて揺れ、同色の瞳が陽光を受けて燦然と輝く。
「ボク達も移動しよっか?」
「そうだな。認識阻害があるとはいえ、この儘だと悪目立ちが過ぎるからな」
二柱は互いに納得し、一先ずの落ち着きを得る為に宿へと戻る。とはいえ、魔王出現に際して生じた諸々の混乱のお陰で宿へ戻るのも一苦労だったし、到着した所で混乱の為に無駄な足止めを喰らったりしたのだが。
故に、クィクィ達が宿の中で漸く腰を据えて落ち着けたのは、それから一時間近く経ってからの事だった。だが、神の子という悠久の時間を生きる特殊な種族故に、一時間程度であれば本来なら誤差にも満たない些末事として無視出来る。その為、それは決して大した事では無かった筈なのだが、しかし状況が状況だからなのか、矢鱈と疲れた様な気がする。
だからこそ、ヴェネーノはアルピナをベッドに寝かせる一方、クィクィは近くの椅子に腰を下ろして大きく身体を伸ばしていた。
「はぁ~、疲れたぁ~」
背凭れに体重を預け、椅子を丸ごと後ろに傾けた儘、彼女は天井を見上げる。そして、その視線をゆっくりと窓の向こうに広がる青空へと動かす。
だが、どれだけ窓の向こうを見据えても、何か面白いものが見える訳では無いし、勿論疲れが取れる訳でも無い。
だからこそ、クィクィは適当な所で視線を戻す。そして、異空収納の中から愛用のティーセットを徐に取り出すと、一柱静かに紅茶を嗜んで心を落ち着かせるのだった。
「あれ? クィクィ、お前、紅茶なんて飲むのか?」
「普段は飲まないけどね。今回は特別。他に飲むものがないから。それに、スクーデリアお姉ちゃんが帰って来る迄、特にやる事なんて無いでしょ?」
温かな湯気が仄かに立ち上るティーカップを眺めつつ、クィクィは静かに呟く。その相好には微かな落ち着きと温かみが取り戻されつつある様で、果たしてそれが紅茶のお陰かは定かでは無いものの、ヴェネーノとしては有り難かった。
というのも、たかがヴェネーノ如きでは仮にクィクィがストレスと不満を爆発させたら対処出来無いのだ。同じ悪魔同士ではあるものの両者の間には隔絶された実力差が存在し、彼女の前では彼程度など塵芥程度の影響力でしかないのだ。
兎も角、そんな彼女の態度振る舞いに一抹の安堵を覚えたヴェネーノは、しかし彼女と席を同じくする事無くアルピナが寝ているものとはまた別のベッドに腰掛ける。そして、別にクィクィの御相伴に与る事も無く、静かに時が過ぎるのを待つのだった。
抑、悪魔に限らず神の子に飲食の必要性は無い。加えて、そういう欲も無い。あくまでも可能なだけであり、良くも悪くもその程度なのだ。
だからこそ、クィクィが敢えて紅茶を嗜む事で心を落ち着かせているのも、ヴェネーノが何もせずにジッとしているのも、何方も間違いではない。あくまでも選択肢としての一つでしかなかった。
そして、それから程無くして、クィクィとヴェネーノは寸分の狂いも無く顔を上げる。また、その視線は部屋の中央へと向けられており、そこには何も無いものの、まるで何かが存在しているかの様に彼彼女の視線はその一点に集中していた。
軈て、部屋の中に満ちる空気が揺れ動く。まるで枝葉が風で戦いでいるかの様な雰囲気が突如として部屋の中央部分から湧き上がった。
だが、クィクィもヴェネーノも決して慌てる事は無い。天使が襲撃してきた、とばかりに臨戦態勢に入っても何ら不思議ではない状況だが、しかしそうしないのは、偏にその正体に気付いている為。決して慌てる事も警戒する事も無く、寧ろ清々しい程の穏やかさで二柱はそれを受け入れるのだった。
そしてその突発的な戦ぎは、軈て空間そのものの罅割れへと変質する。まるで硝子に罅を入れたかの様に空間そのものに亀裂が生じ、それは瞬く間に拡大する。
その後もそれは人間一人が余裕を以て通れそうな程度の大きさ迄拡大し、遂にそれは弾ける。
空間の罅割れは空間の渦へと変質し、黄昏色に輝くその渦は吸い込まれそうな妖しさを醸し出し乍ら鎮座している。まるで、最初からそこにありました、と言わんばかりなそれは、しかし決してそこに存在して良い筈の無い異質さもまた同時に併せ抱いていた。
そして、その渦の中から遂に姿を現したのは、他でも無いスクーデリアだった。鈍色の長髪を腰に届きそうな程長く伸ばし、消せない金色の魔眼を燦然と輝かせ、彼女は宛ら最上位階の貴族を髣髴とさせる気品を身に纏っていた。
「おかえり、スクーデリアお姉ちゃん」
「ただいま、クィクィ、それにヴェネーノも。如何やら、何事も無かった様ね」
周囲をグルリと一瞥しつつ、スクーデリアは優しい微笑みを携える。麗しさとお淑やかさと上品さを兼ね備えるそれは、それを受ける者の心を癒し、しかし自然と気を引き締められてしまう。
「今の所はね。アルピナお姉ちゃんもまだ眠った儘だから。それより、如何だった?」
クィクィは、テーブルの上に出した儘のティーセットを魔法で操作し、スクーデリアに手渡し乍ら問い掛ける。小首を傾げ、その稚い外見相応の可憐な態度振る舞いをその儘に、彼女からは然程の緊張感も感じられなかった。
だからこそ、或いは仮令そうでは無くとも、スクーデリアは彼女に対して柔らに微笑む。ティーカップを受け取り、クィクィとはテーブルを挟んだ向かい側に座り、彼女は静かに一息付く。そして、改めて紅茶で口唇を艶やかに濡らし、彼女は徐に口を開いた。
「そうね。上出来よ。寧ろ、想像以上と言っても差し支え無い程ね。客観的な確証を得るには実際に見て確かめるしか方法は無いけれど、それでも、大方の原因と現在の居場所には見当が付けられたわ」
「それで、その原因と場所は?」
先を急かす様にヴェネーノは問い掛ける。決して焦っている訳では無かったが、しかし冗長な世間話を交えている様な状況でも無かった。だからこそ、彼は己の理性で脱線しそうな雰囲気を生まない様に毅然とした対応を維持するのだった。
「先ずは原因……というよりは首謀者ね。それに関してはレイスとナナが二対四枚の翼と言っていたお陰で智天使級天使だという事迄は分かっていたけれど、如何やらその正体はラムエルとアウロラエルの様ね」
「あーあの二柱かぁ。確かに言われてみれば、状況からしてあの二柱が未だ出てきてないのは違和感があるもんね」
ラムエルはシャルエル、ルシエル、バルエルと共に四天使と一纏めにされている天使。何か特別な役職に就いている訳では無いものの、天使長にかなり近しい立場にあるという意味合いで、彼らは有名なのだ。
また、アウロラエルに関しても、彼女は長年天使長の側近として辣腕を振るってきた有能者。つまり、天使という種族に於ける事実上のNo.2であり、悪魔で言う所のスクーデリアや龍で言う所のノーレイティアに相当する立場である。
つまり、何方も天使長セツナエルに非常に近しい存在という事。そんな彼彼女らの中に組み込まれているラムエルとアウロラエルだけがこれ迄の対立で表立って出てきてなかった。その為、その二柱が今回遂に行動を開始したと考えるのは、非常に理に適った思考回路とも言えるのだ。
次回、第387話は10/31公開予定です。




