第38話:待ち伏せ
彼の視界には、古砦の外観からは想像できない広大な空間が広がっていた。それはまさに、迷宮とも監獄とも形容できそうなほど。或いは、神殿と形容してもとりわけ問題なさそうな神聖さを併せ含む空間だった。現在は長い時の流れにより朽ちてしまっているが、当時はそれなりの荘厳な内装だったのだろうと想像するのは容易だ。
「これは……凄いな」
安直な感想だが、却って発言の信頼性が向上する。純粋な驚嘆と好奇心から出た発言は無意識のものだった。
「当時は今より悪魔の数が多かったからな。加えて、地界への造詣もかなり深く人間との関わりも多少は存在した。環境に馴染ませつつ悪魔の存在を堅持するために生み出された悪魔なりの芸術文化だったのだろう。しかし、それもずいぶん昔だ。当時の心情など忘れてしまったがな」
「そうか。それで、ここから何処に進めばいいんだ? 構造は全部覚えてるんだろ?」
「当然だ。面倒な罠と無駄な構造のおかげで複雑に見えるが、実態はただの一本道だ。只管上階に登ることだけ考えればいい」
意外と簡単なんだな、とクオンは苦笑する。それは、悪魔が造った砦という名前に先走った過度な期待に対する裏切りかもしれない。
「あくまでも門の管理が主目的だからな。あまり複雑にし過ぎては我々の移動が制限される。さらに言えば、我々悪魔と天使は相反するが本質は同一。生半可な工夫では、容易に破られる。かといって、破られないような工夫は費用対効果が合わない。所詮は気休めだ」
クオンとアルピナは、古砦の奥へと進む。崩れた内壁に足を取られつつ、一つ浮かぶ光球に視界を委ねる。
その最中、遭遇するのは無数の聖獣と天使達。薄暗闇の中でも目立つ暁闇色の一本角は妖艶に浮かび、魂から零れる聖力が彼らの身体を薄く覆う。獣型や鳥型など、特定の容姿に縛られない彼らの佇まいは何度見ても異様に感じる。
彼らは特別知能を持たず、ただシャルエルから与えられた命令に沿って行動するのみ。故に、恐怖を知らなければ逃走もない。敵を捕捉すれば愚直に突撃するのみ。
そんな彼らを、クオンとアルピナは迎撃する。アルピナは当然とし、クオンもまた天使との闘いを通じて多くの経験と技術を得た。その為、生半可な聖獣程度ではクオンの相手は務まらない。多少の人数差なら容易に覆せるほどの力を彼は知らず知らずのうちに手に入れていた。
……一般人のレベルは疾うに逸脱したか。ならば、運命の歯車は首尾よく回っていると解釈してもよさそうだ。
聖獣をなぎ倒すクオンの背中を感慨深く見つめるアルピナは心中で呟く。クオンに対する特別の感情を抱き、過去から未来へ繋がった歯車に歓喜した。或いは、過去の己の罪と罰に対する恩赦が与えられたような気がした。
しかし、それは確定ではない。あくまでも、彼女の主観から見た予測であり確信を得られるほどのものではない。それには、まだ時間が必要なのだ。
これからが楽しみだ、とアルピナは襲撃する聖獣を蹴り飛ばしつつ嗤う。両手はコートのポケットに入れたまま平然と戦う彼女の顔には余裕の文字が浮かぶ。もはや魔力すら使わず、彼女はクオンを伴って古砦を登る。
行く手先々に潜ませられた罠はアルピナの記憶のおかげで大して苦労にはならない。ただ一つクオンを悩ませるのは、その規模。元来、対天使を想定して悪魔が設置したものである以上その威力が高すぎるのだ。恐らく、これを受けるのが天使や悪魔なら軽い足止めにはなるだろう。しかし、ただのヒトの子でしかないクオンが受けたら肉体が消滅するのは必然。たとえアルピナの支援があるとはいえ、少しでも気を抜こうものならたちまち死に誘われてしまうだろう。
その合間にも、クオンは波押し寄せる聖獣と天使の群れを斃す。残存する魂はアルピナの手により神界へと送られ、その場には聖獣の器と血痕だけが無残に広がる。
「また次から次へと……このままだとキリがないな」
「天使も悪魔も世界全体を管理する必要がある以上、数だけは豊富だからな。尤も、古い悪魔も魔物もほぼ絶滅してしまった手前、これだけの数を用意できる天使が羨ましく思えるがな」
アルピナは己の境遇を蔑笑する。足元に転がる骸を踏み潰し、飛散する血飛沫に舌打ちを零す。過去の因縁を憂い、現在の境遇を唾棄する。しかし、時の流れに逆らうことは例え神であっても不可能であることを彼女は知悉している。故に、これ以上の羨望は頭から追いやられる。眼前に立つ歓喜に未来を探し、掌中の現在に生きる糧を見出す。
石床を叩く靴音が反響し、滴落する血液が小さく跳ねる。断末魔と恐怖の叫声が反響し、闇を劈いて消える。無条件の死を送る悪魔とその契約者の背後には死屍累々の惨状が続き、天使の肉体だけは丁重に神界へ送りられる。
登り始めて数十分後、クオンとアルピナは古砦の最上階に到達する。窓一つない砦は宵闇より深く、加えて町の裏路地より陰気な雰囲気に包まれる。しかし同時に、聖力が齎す神秘的な香りが点在する悪魔文明の装飾品を天使色に染め、折衷した妖艶な雰囲気を作り上げている。
次第にシャルエルの聖力は濃くなり、肌を焼く陽光の眼差しが何処からか射さる。昨日会った時とは比べ物にならない濃度は、クオンが到底及ばない次元にある事の証左である。それは、彼の心に不安と恐怖の影を差し込んだ。その心を読みとったアルピナは、その不安を吹き飛ばすように微笑む。
「くだらない心配はするな。たとえ相手が誰であろうとも、ワタシと君がいれば負けることはない。それは私が保障しよう。君はただ胸を張って挑めばいい」
クオンとアルピナは、中央に毛足が長い深紅のカーペットが敷かれた長い通路を歩く。頭上に浮かぶ光球一つでは最奥まで照らすことは出来ず、再び闇が居場所を取り戻す。壁面に飾られたタペストリーには、背中合わせの少女と龍を思わせる紋章が描かれる。悪魔らしい文化背景を思わせる加飾が加えられ、より一層の荘厳な雰囲気を印象付ける。
「これは悪魔の紋章か?」
「ワタシが決めたものではないがな。可能ならば変えてほしいところだが、今となってはいい思い出かもしれない」
苦笑を零しつつ、彼女はその紋章を見つめる。古き思い出に浸る感傷的な瞳は青く染まり、光球から齎される光によって強調される。
いつの日か、と思い続けてきた積年の願望が現実となった喜びが彼女の魂の中で再燃する。長くも短い時の流れが生む焦燥感からの脱却、それによる開放感を改めて受け取った。それは、彼女の顔を僅かに綻ばせ、普段の傲岸不遜な態度からは考えられない装いを魅せる。
「どうした、アルピナ?」
「いや、気にするな。それより、目的が見えてきたな」
アルピナの瞳が鋭く引き締まる。濃密な魔力が身体から滲出し、通路に満ちる聖力を侵食する。肌の焼きつきが僅かに改善したような気がするが、恐らく気のせいだろう。いくら魔力を授かっているとはいえ、身体構造は人間のままである。聖力に悪影響があって魔力にないとは思えないのだ。
やがて、通路の最奥部に巨大な扉が聳え浮かぶ。身の丈を遥かに超える巨大な門戸は、直接触れなくても厳重な封が施されているのが容易に想像できる。
その扉には、異様なほど強大で濃密な聖力が融け込んでいた。琥珀色に染まるクオンの目はそれを認識して痛いほど疼き、直視できないほどの圧力を感じる。それに対してアルピナは、金色の魔眼を平然と開いたまま忌々し気に舌打ちを零した。
次回、第39話は11/5 21:00公開予定です




