第371話:嵐の後
また、それはアンジェリーナも同様だった。彼女もまた、彼の言葉を真摯に受け止めつつも、同時に心の底ではそんな夢想とも妄想とも付かない突拍子も無い予想に対して乾いた笑いが零れてしまっていた。
しかし、一概にそれを一笑に付せない事もまた現実。レインザード攻防戦は当事者として現地にいた訳では無い為に除外するとして、驪龍の岩窟での一件及び今回の一見に関して、自分自身で見て聞いて肌で感じている。
故に、否定したくても否定出来無いのだ。有り得ない荒唐無稽な夢物語だった筈の空想が、自分自身で目撃してしまったが為に覆し様の無い裏取りをされてしまっていたのだ。
そうだね、とアンジェリーナは力無く呟く。彼女は意味も無く近場をキョロキョロと見渡し、崩れ掛けた建築物の残骸にそっと手を触れる。
改めて感じるが、やはり如何考えても人間業では無い。レインザード攻防戦の報告書を読んだ時は半信半疑交ざりの衝撃だったが、こうして眼鼻の先で見せ付けられると骨身に染みて実感してしまう。
戦争。或いは蹂躙。将又侵略。
彼女の脳裏に浮かんだのは幾つかの可能性。魔獣という潜在的な脅威があったものの表面上乃至外交上は恒久的な平和を取り繕っていたプレラハル王国には本来存在しない筈の仮定。
しかし、状況が状況であるが故に自然と受け入れられた。魔王の襲撃は宛ら他国からの侵略戦争の様であり、寧ろこうして実際に被害を受けている以上はその通りでしかなかった。
「これ以上野放しにしてたら本格的に大変ね」
彼方は此方を一方的に蹂躙し、此方は彼方をその正体含めて何一つ掴んでいない。一般的な戦争ですら中々お目に掛かれない彼我の情報差であり、寧ろ何故未だ壊滅していないのかが不思議で堪らない程の戦力差である。
「その為にも、兎に角先ずは陛下に報告しなければ。それに、犠牲者や負傷者の捜索及び救助も必要だ。恐らく、キィス辺りが動ける人員で如何にか準備を整えている頃だろう。アンジーに指揮権は委ねるから、俺の部下達を率いてそっちに回ってくれ」
「お兄ちゃんは?」
如何するの?、とアンジェリーナは首を傾げる。それに対し、ガリアノットは何時に無く真剣な相好を浮かべた儘、その顔に似合った声色と口調で静かに自身の予定を伝える。
「俺は一足先に陛下に報告をしてくる。魔王の姿は既に消失。人的・物的損傷多数あり。得られた情報は少ないが、少しでも早く伝えて損は無い。それに、今後についての議論も交わせるかも知れない。尤も、現場レベルで見えない現状を後方から見えるとも思えないがな」
やれやれ、とばかりに溜息を零すガリアノット。しかし、決して国王陛下を侮辱している訳では無い。確かに陛下は安全な最後方で強い武力に護られているが、しかしそれもまた役目。全体の統率の為には必要不可欠であり、何も安全圏に踏ん反り返っている訳では無い。
それに、まさか四騎士ともあろう者がその直属の上司であり国のトップである国王を侮辱する様な事があって良い筈が無い。勿論、四騎士以外も同様ではあるのだが、しかし四騎士は立場上その傾向が極めて強い。
故に、若しそんな事があれば即刻首を刎ね飛ばされている事だろう。それだけ聞けば非常に身勝手な独裁者の様にしか聞こえないが、しかしそうなっても可笑しくは無い程に、彼彼女らの心身は国王の傍に存在しているのだ。
兎も角、そういう訳で、ガリアノットはアンジェリーナに一時の別れを告げる。指揮権を一時的に移譲する事は日常茶飯事である為に、態々《わざわざ》部下を集結させて伝達する必要も無かった。何時も通り勝手に姿を消しても彼彼女らは勝手に解釈し勝手に判断してくれるのだ。
だからこそ、ガリアノットは一目散に王城へ駆け戻る。幾ら王国最強の座に就く四騎士とは雖も、所詮は人間レベル。決して創作物の主人公の様な類稀な身体能力に秀でている訳では無い。その為、その足取りは非常に人間的な範疇に留まっていた。
【同日深夜 プレラハル王国:王都】
黄昏色が今尚斑に残る宵闇が、遍く大地に静謐な宵闇を降り注いでいる。人間達の生活圏としては最も栄えている筈の王都も、日中に突如として現れた魔王の一撃によって壊滅的被害を受けた為に、嘗て無い消沈具合を見せている。
ぼんやりと浮かんでいる灯りの数は非常に少なく、勿論当然だが陽気な喧騒は一欠片たりとも聞こえてこない。耳に五月蠅い程の静けさだけが重く大地に圧し掛かり、宛ら町一つが広大な墓場に変えられてしまったかの様だった。
しかし、それに反して、王都中央に聳える王城だけはその限りでは無かった。王国の技術の粋を結集させて建てられた巨大な城からは幾つもの灯りが零出し、中では時間を無視した労働が続けられている事をそれは物語っていた。
廊下を忙しなく文官が行き交い、執務室では無言で書類を捲る音が鳴り、会議室では重苦しい溜息が交差する。
魔王出現とそれに伴う甚大な被害が彼彼女らの心身に重く圧し掛かる。終わりが見えない事後処理に頭を悩ませつつ、疲労困憊する身体に鞭を打って無理矢理にでもそれを働かせ続けなければならなかった。民の為に、或いは国の為に、彼らは心身を擲ってそれらに奉仕するのだった。
しかし、そんな彼彼女らの認識の外。美麗で麗しい純白の尖塔の頭を覆う青色の屋根のその先端。手を伸ばせば雲にも届くのではないか、とすら思わせてくれる程に遥か高く伸びるそこに、少女が立っていた。
比較的小柄な体躯。肩の長さに真っ直ぐ伸びる濡羽色の髪には茜色の差し色が入っている。また、猫の様に大きくもやや垂れ下がった瞳は髪と同じ茜色に染まり、宛ら宝石箱の如き輝きを満天の夜空に溶け込ませている。
その姿は一見して何処にでもいる普通の少女。いる場所こそ異様だが、しかしそこにさえ目を瞑れば精々10代後半の御淑やかな少女にしか感じられない。
しかし、そんな彼女だが人間とは明確に異なる点が唯一つだけ存在した。
それこそ即ち、聖女的な純白の羽衣に包まれた背中から伸びる三対六枚の純白の翼。
それはつまり、彼女が人間では無く天使である事の証左。それも、何処にでもいる極普通の雑多な天使では無く、天使種のヒエラルキーの最上位に君臨する熾天使級天使である事の証明。
凡ゆる世界に散らばる凡ゆる天使達を統括する天使長の座に君臨する彼女セツナエルは、眼下に広がる悲壮感に包まれた王都を、その茜色の瞳で静かに見つめる。
その相好は非常に穏やかなもの。天使としてのステレオタイプをその儘落とし込んだ様な可愛らしさは、しかしこの静謐な宵闇の中に自然と溶け込んでいる様にも感じられる。
同時に、何故だろうか? その雰囲気は何処と無く公爵級悪魔アルピナを彷彿とさせる。それこそ、髪及び瞳の色を染め替えつつ衣装を着替えたら大体似た様な感じになりそうな程には良く似ている。
彼女は微笑みを携えた儘王都を眺め、次に空を見上げる。
空はそれなりに漆黒色の宵闇が取り戻されつつある様だが、しかし今尚アルピナが暴れた影響による黄昏色が残っていた。人間的視座で見るなら非常に気味が悪く、しかし神の子的視座で見るなら懐かしさを感じさせてくれるものだった。
……相変わらず、あの子には苦労させられますね。
心中で優しく吐露しつつ、セツナエルは魂から聖力を解放する。暁闇色の輝くそれは、彼女の魂から産生され、彼女の血液に乗って全身へと満ちる。
それは、天使を天使足らしめる力。そして同時に、悪魔が持つ魔力に対して優位性を持つ唯一の力。
次回、第372話は10/10公開予定です。




