第367話:英雄達の苦悩
『……俺にも何が何やらサッパリだ。あいつが翼を顕現させて暴れる程の事態なんて、俺が知っている限りだとこれ迄にも片手で数えられる程度しかない。しかも、それらは全部地界以外で行われていたな』
だからこそ、とセナの額には冷たい汗が浮かぶ。眼前の硝子窓の奥に広がる城下町の上空に浮かぶ一柱の少女に対して最大限の警戒心と恐怖を抱く事で、この状況が果たしてどれ程深刻なのかを自身の魂に刻み込む。
『それ相応の何かがあそこで起こっている、という事なんだろうな』
セナは菫色に鈍く輝く瞳を金色の魔眼に染め替える。そして、その視界の先で行われている一悶着の真相を詳らかにしよう、とばかりにその本質を観察する。魂から魔力を湧出させ、天魔の理に抵触しない程度に抑えつつ、彼は英雄としての建前から微かに逸脱するのだった。
また、それに倣う様に、アルバートとルルシエもまた其々《それぞれ》自身の瞳を金色の魔眼に染め替える。果たして、アルピナの身に何が起きたというのか? 或いは、彼女以外の誰かに一体どの様な事件が舞い込んだのだろうか? 性格に反して思いの外仲間想いなアルピナがあれ程の状態に迄精神状態を荒れさせているのだ。如何様にでも予測が立てられた。
しかし、彼彼女らの微かな希望は脆くも崩れ去る。特にその傾向が強いのは彼彼女らの中で唯一悪魔では無い純粋な人間であるアルバートだった。彼は暫くアルピナを観察した後何かを諦めたかの様に視線を外すと、改めてセナとルルシエに精神感応を繋いで彼彼女に問い掛ける。
『……俺の魔眼だと上手く見えないんだが……一体何が如何なっているんだ?』
『いや、見えないのはアルバートだけじゃないよ。私の魔眼でも良く見えないもん』
狼狽と困惑と不安が入り混じった重く低い声色で尋ねるアルバートに対し、ルルシエもまたそれに同意する。それは決して彼の心情を汲み取って同情している訳では無く、彼女もまたアルバートと同じ状況に陥っていた為の本心としての同意だった。
一体アルバートとルルシエの魔眼は如何なっているのか? それは単純に、アルピナ及びその周囲の状況が映らないのだ。決して魔眼に不調を来たした訳では無く、アルピナの魂から零出する天魔の理を逸脱した凶暴な魔力嵐を前にして、魔眼を魔眼として維持出来無かったのだ。
その為、魔力の影響を受けない肉眼ではその姿を確認出来るものの、魔力由来の力である魔眼はその魔力嵐を前にして完全に機能を停止してしまっていたのだ。それは、憖此処が地界であるが故にアルバートもルルシエも天魔の理を逸脱した魔眼を開く事が許されないからこそ生じてしまった稀有な現象だった。
尤も、アルバートに至っては本質が人間。その上、魔力もスクーデリアから契約に則って譲り受けただけの仮初のものでしかなく、且つ仮初の魔力では天魔の理を逸脱する事は出来無い。その為、それは単純に天魔の理云々以前の力不足でしかなかったのだが。
また、本質が純粋な悪魔であり天魔の理の影響を受けるルルシエもまた同様にアルピナの魔力嵐を前にして正常な魔眼を開けないという事は、同じく悪魔であり天魔の理の影響を受けているセナもまた同様だった。
彼もまた、アルピナの魔力嵐を前にして機能を停止してしまった己の魔眼に対して小さく舌打ちを零す。というのも、彼は悪魔として生きた時間が長く、その上神龍大戦時には基本的に魔眼を開きっ放しだった。その為、魔眼を介して視覚情報を得る事に慣れ過ぎてしまっていたのだ。
結果的に、こうして魔眼が使い物にならないという事態に陥ってその不便さが顕著に現れ出たのだ。或いは、もどかしさと言った方が良いのかも知れない。兎も角そういう訳で、彼は改めて肉眼から得られる視覚情報の頼りなさにやるせない思いを抱くのだった。
『二柱の魔眼も同じか。やはり、天魔の理の影響下だと、理から逸脱した力の前には完全に無力だな。これだと、一体アルピナ達の身に何があったのかさっぱり不明だな』
如何したものか、とセナは窓硝子に手を添えてその奥に広がる光景を睥睨する。英雄としての立場を背負っているが故に人間としての行動を強いられ、しかし英雄としての椅子に縛り付けられているが故に勝手な行動が許されない。その並び立つ二つの柵に対する窮屈さともどかしさは、彼の心に重いフラストレーションとして積み重なる。
『それじゃあ、私だけでも行ってみよっか? 私なら人間達から英雄とも魔王とも認識されてないから、勝手気儘に動いても特に影響は無いでしょ?』
ねぇねぇ、とばかりにルルシエはセナを彼の影の中から呼び掛け、同時に一つの提案を投げ掛ける。それは、彼女が現在置かれている特異な立場だからこそ為せる選択肢であり、且つ彼女が為せる最善手でもあった。
だからこそ、セナは彼女の提案に対して暫しの沈黙と共に思案する。出来る事なら即答したい所なのだが、状況が状況だけにそうも言っていられない。というのも、ルルシエは未だ新生悪魔な為、アルピナという超強大な力が吹き荒ぶ環境下で単独行動を取らせるのは危険極まりないのだ。
勿論、同族であり非敵対関係である為、基本的には無害だと思われる。それでも、この場から読み取れるアルピナの精神状況だとどの様な危険が訪れても決して不思議では無い。憖アルピナとルルシエはレインザード攻防戦が初対面だった事もあり、正常に認識出来無い可能性も否定し切れないのだ。
それでも、何時迄も考えている訳にはいかない。こうしている間にも刻一刻と状況は変化している。また、場合によっては英雄としての立場で動かされる可能性が非常に高い。寧ろ、未だこうしてのんびりと待機していられる方が異常な迄ある。
だからこそ、セナは多少の不安は残るものの、彼女の提案に対して答えを絞り出す。同族同士で危険と隣り合わせになるのは余り良い気分では無いが、しかし綺麗事ばかり言っていられる訳でも無い。それは、神龍大戦で嫌という程経験していた。
『……そうだな、それが良いだろう。この距離で魔眼が機能しない以上、認識阻害も役に立たないだろうからな。だが、無理はするな。あれでもアルピナの力は比較的抑えられている。何時爆発するか分からない上に、若しそうなってしまえば新生神の子でしかないお前では悪魔同士であっても無事では無い済まないだろう。それにと、今でこそこうして精神感応を繋いでいられるが、それも精々お前が影に入っている間。現に、俺とアルバートだって、お前が俺たちの影の中で中継してくれるから辛うじて精神感応が成り立ってるだけだ。だからこそ、若し何かあっても状況が落ち着かない限りは助ける事すら儘成らない。無理そうなら直ぐに逃げろよ』
セナの視線は、今尚硝子窓の向こうで魔力を垂れ流しているアルピナへと向けられている。しかしその相好や精神感応越しの声色及び口調、そして魂の波長や読み取れる精神状況等を鑑みれば、その心情がルルシエへと向けられている事は明らかだった。
それは、彼なりの不安と心配心だった。英雄としての客観的立場、そしてルルシエという存在の秘匿性等の理由から表立ってそれを表出出来無いが故の対応だったのだ。それこそ、若し出来る事なら一緒に現場に同行したいくらいには、彼女の事を心から心配していた。
勿論、それはルルシエにも伝わっている。存在そのものを秘匿しているとはいえ、彼女もまた悪魔であり乍らも実質的に英雄としての立場に就いている存在。その為、セナが如何いう背景事情でその態度振る舞いを表出しているのかは手に取る様に理解出来た。
次回、第368話は10/4公開予定です。




