第365話:催眠魔法
その為、スクーデリアは安心した様に彼彼女らから視線を外す。勿論、それでアルピナの理性が落ち着くなんて事は無いと分かり切ってはいるが、しかしクオンと行動を共にしていたアルテア達の安否が確認出来ただけで十分だった。
そうして地上から眼前のアルピナへと視線を戻したスクーデリアは、その金色の魔眼で改めてアルピナの魂を注意深く観察する。というのも、この魔力嵐を如何にかしない事には彼女を力業で宥める事しか出来無い。しかし、余りにも膨大過ぎる彼女の魔力を正確に推し量るのは非常に困難。だからこそ、その時を見逃さない様に意識を集中させる必要があったのだ。
そして、如何したものかと彼是心中で思案している内に、漸くアルピナの魔力嵐に綻びが生じ始める。しかし、此処に至る迄に要した時間は非常に短いもの。彼女が持つ膨大な魔力量と現状の放出量を考えれば、この程度の時間で消耗状態を来たす事は無い筈でだった。
それにも関わらずこうして極僅かだが消耗の兆しを覗かせる事となってしまったのは、偏に彼女の精神状態に起因するもの。余りにも乱れた彼女の精神は正常な魔力消費から大きく逸脱し、必要以上の魔力を徒に浪費させていたのだ。
それこそ、普段通りの正常な精神状態だったら同程度の規模で魔力嵐を放出させても数年はそれを維持出来ていただろう。しかし、それが今やものの数分程度で魔力が不足しつつあるのだから、その燃費の悪さは顕著だろう。
そして、スクーデリアの不閉の魔眼はその兆候を決して見逃さない。それは瞬きにも満たない刹那程の時間だけ覗かせた変化。それにも関わらず、しかしまるで時の流れが遅くなったかの様にそれははっきりと彼女の魔眼に映り込むのだった。
だからこそ、スクーデリアはその極僅かな隙を決して逃さない様に、迅速に行動する。アルピナは非常に強大な存在。スクーデリア程の強者であろうとも、その一瞬の隙を逃せば次の機会を獲得出来る保証は何処にも存在しないのだ。
加えて、仮令隙を見つけたとしても、その隙を確実に活かせる保証もまた何処にも存在しない。余りにも短過ぎるその隙は、場合によっては何も為す事が出来ずに終わってしまうかも知れない。或いは、何かを為そうとしても瞬く間に対応されてしまうかも知れない。
だからこそ、アルピナに知覚されるより早く、且つ認識されるより深く事を為す必要があった。その為、仮令味方同士とは雖もスクーデリアの心には容赦も遠慮も無かった。勿論、肉体的死を与えない様な配慮だけは欠かさず、しかし多少の損傷には目を瞑る覚悟で彼女はアルピナの懐に潜り込む。
「落ちなさい、アルピナ」
スクーデリアは、黄昏色の魔力で染まった指尖をアルピナの眉間に軽く添えつつ静かに呟く。その声色と口調は氷の様に冷たくも何処か懐かしい温かみも内包しており、まるで実子を宥める母親の様な包容力を感じさせるものだった。
そして、その言葉と同時に、スクーデリアは一つの魔法を起動させる。尚、魔法は本来であれば態々《わざわざ》対象者に直接触れなければならない訳では無い。しかし周囲に満ちるアルピナの魔力嵐が魔法の構築を阻害する為、こうして直接魔法を打ち込まなければ、只でさえ魔法耐性の高いアルピナに魔法の効力を及ぼさせる事は仮令スクーデリア程の実力者であろうとも難しかったのだ。
「ッ……これは……催眠魔法か? スクーデリア……一体何を……?」
スクーデリアがアルピナに施した魔法。それはズバリ催眠魔法。本来であれば睡眠を必要としない神の子だが、しかしそれはあくまでも必要としないだけ。身体構造上は一応可能なのだ。そしてそれを魔法で強引に起動する事により、アルピナの脳内に強烈な睡魔を生じさせたのだった。
尚、スクーデリアの魔法技術は全悪魔一。それこそ、全悪魔で頂点に君臨する二代目悪魔公アルピナや初代の悪魔公をも上回る。その為、彼女の魔法は非常に強力なものとなっており、たかが催眠魔法とは雖も、その威力は大抵の者ならば受けた瞬間に昏睡状態へと陥ってしまう程。
しかし、アルピナはその催眠魔法を前にして辛うじて乍ら耐え忍ぶ。それは、持ち前の膨大な魔力量と乱れた精神状態とクオンに対する純粋な想いによって齎されたもの。しかし、流石の彼女とは雖も全く以て無事という訳では無く、辛うじて意識を保っているだけのギリギリな状態である事には変わりなかった。
それでも、スクーデリアからしてみれば予想外も良い所だった。彼女としては魔力を出し惜しみ無く放出する事でかなり強烈な催眠魔法を構築した積もりだった。それこそ、悪魔に対して相性上優位な天使の中でも最上位に君臨する天使長セツナエルですら無事では済まない程。
だからこそ、辛うじて乍ら意識を保って言葉を紡ぐアルピナの態度振る舞いに対して、スクーデリアは驚きと称賛と不満が入り混じった複雑な相好を向ける。果たして自分の魔法に抗って見せた彼女を褒めるべきなのか、或いは思い通りに事を運ばせられなかった自分の不甲斐無さに怒るべきなのか、将又その両方を想起すべきなのか。そんな迷いがその相好の背後には隠されていた。
「やっぱりそう簡単には効いてくれないわよね、貴女は。でもねアルピナ、今はそんな事を褒め称えている暇は無いの。無駄な抵抗はよしてくれるかしら?」
スクーデリアはアルピナの眉間に指先で触れた儘、何処と無く不機嫌そうな声色を携えてアルピナに語り掛ける。勿論それは本心から怒っている訳では無く、アルピナを如何にか説得しようと手練手管を尽くした結果。出来る事ならもっと優しく語り掛けたかったのだが、幾らスクーデリアでも自身の心に巣食う焦りと不安を無視する事は出来無かったのだ。
その儘スクーデリアはより一層の魔力を魂から産生し、それによって催眠魔法の強度を高めていく。それは最早催眠魔法と呼ぶのも烏滸がましい威力へと変質し、恐らくヒトの子なら眠りを通り越してその儘死を迎えてしまいそうな凶悪的威力へと成長していたのだった。
スクーデリアは自身の背中から伸びる二対四枚の翼を大きく羽ばたかせる。その漆黒色の翼は貴族の様に美麗で上品な彼女をより一層艶やかに彩り、彼女が現在放出する力を対外的に象徴するかの様に冷徹な覇気を辺り一面に散らすのだった。
軈て、そんな彼女の催眠魔法は、指先を介してアルピナの体内へと直接叩き込まれる。そして、その叩き込まれた催眠魔法は着実にアルピナの心身を鎮静化させていく。それは非常に遅々としたものだが、しかし目に見えて効力がある様だった。
だが、流石は悪魔公だろう。これ程の強力な催眠魔法を前にしてそれでも尚即時的な効果は見られず、微か乍らの抵抗が見え隠れしている。果たして一体どれ程の想いがこの抵抗の中に込められているのだろうか? クオンを想う彼女の心の強さが明確化され、スクーデリアの心に暗い影を落とす。
しかし、だからと言って引き下がる事は出来無い。此処で下手に許してしまえば、この世界が如何なってしまうかまるで予測が付かないのだ。アルピナ-ジルニア間の約束を無事成就させる為にも、此処は一度心を無にして対応せざるを得なかった。
そして、遂に催眠魔法の効力が完全にアルピナの心身を支配した。アルピナは意識を肉体から完全に手放し、深い眠りに落ちたのだった。背中から伸びる三対六枚の翼はその儘に、その小さな躯体をスクーデリアの身体に凭れ掛からせ、可愛らしい寝息を零すのだった。
そして、それに伴う様に、周囲を吹き荒んでいた魔力嵐も完全に消失する。空は未だに黄昏色に染まった儘だが、暫くすればまた元に戻るだろう。或いは、セツナエル辺りが聖力で魔力を中和してくれるかも知れない。何れにせよ、漸くの安堵が到来した事は確実だった。
「ごめんなさいね、アルピナ。でも、暫くはその儘安静にしていなさい」
スクーデリアはアルピナを優しく抱きかかえる。そして眼下で今尚恐慌状態に陥っている人間達を不閉の魔眼で観察しつつ、今後の動向を思案するのだった。また何より、何処かにいるであろうクィクィ達との合流も必須。だからこそ、彼女は改めて自身とアルピナの身体に認識阻害の魔法を掛け直しつつ、地上へ向けてゆっくりと降下するのだった。
次回、第366話は10/2公開予定です。




