第363話:焦りと苛立ち
「……まさかッ⁉」
アルピナは上空を仰ぎ見る。無限の彼方迄続いていそうな澄み渡る青空が何処迄も広がり、何も知らない平和を大地に齎している。そして、その中に一際の存在感を放ち乍ら大地を明るく照らす日輪が浮かび、狼狽と困惑を露わにするアルピナを嘲笑している。
だからこそ、その温暖で陽気な陽光はアルピナの心の裾に却って暗い影を落とす。そして更に同じく何も知らない人間達の陽気な喧騒がそこに組み合わさる事で、彼女の理性は最早影も形も無くなってしまっていた。
軈て、遂に身体を抑え込み切れなくなった彼女は、周囲の視線などまるで気に留める事無く上空へと浮かび上がる。魔力を垂れ流し、肉体に張り巡らせていた認識阻害もかなぐり捨て、悪魔としての本質を曝け出す様に、彼女は地平の彼方を俯瞰出来る高さに迄急上昇する。
そして、彼女は魔眼を凝らして周囲を隈無く探知する。勿論、魔眼は肉眼と見え方が異なる為に見る高さを変えた所で何の意味も無いのだが、しかし今の彼女にはそんな事を気にしている余裕は何処にも存在していなかった。
しかし、どれだけ魔眼の精度を高めようとも、クオンの魂も彼が持つ龍魂の欠片も遺剣も何処にも知覚出来なかった。抑、彼女の魔眼の精度は天魔の理の影響下であっても飛び抜けて高い。クオンの龍魔眼やアルバートの魔眼が此処プレラハル王国全体を認識下に置けたりヴェネーノの魔眼がこの地界全体を捉えられるのに対し、彼女の魔眼であれば地界処かこの世界全体を掌中の事の様に知覚出来る。また更に言えば、世界の外に広がる蒼穹に出ればその蒼穹全体だって十分手に取る様に知覚出来るのだ。
だからこそ、そんな魔眼に欠片たりともその存在を認識出来無いという事実は異常以外の何物でも無い。決して自身の魔眼精度に慢心している訳では無く、寧ろ正確に把握出来ているからこそ余計にその気持ちが強く出てしまうのだ。
「クソッ!」
焦りが不安と苛立ちを生み、それが更なる焦りを生む。そんな負の螺旋階段に囚われたアルピナは、その憤りをその儘表出する様に言葉を吐き零す。しかし、どれだけ怒りを露わにしても気持ちが落ち着く事は無い。寧ろ、余計に焦りと苛立ちの螺旋階段を下る速度が速まるだけでしか無かった。
そして、それに伴う様にアルピナは自身の魂から魔力を際限無く湧出させる。或いは暴流させていると形容した方がこの際は適切かも知れない。それは最早天魔の理を遥かに超越する量であり、そんな彼女の魔力は留まる所を知らず何処迄も侵食されていく。
つい先程迄青空が広がっていた筈の上空は瞬きにも満たない刹那程の時間で夕暮れ時を彷彿とさせる黄昏色に染まり、現在時間に対する正常な感覚が乱される。果たして今は夕暮れ時なのか、それともそうでは無いのか。誰も彼もが果たして今何が起きているのか分からず、只上空を見上げてそこを指差しつつ困惑と不安と恐怖を抱くのだった。
軈て、地界処か世界が崩壊し兼ねない程に空間は激震し、彼女の魔力によって三界も龍脈も全てが崩壊の兆しを覗かせる。たった一個体の力だけでこうもなるのか、と彼女の力を知らなければ困惑してしまい兼ねないが、しかし彼女は悪魔公である以前に草創の108柱なのだ。
その為、同じく草創の108柱であるスクーデリアが神によって創造された際に与えられた権能が不閉の魔眼である様に、彼女もまたその立場故に普通の神の子には存在しない特異な権能が存在する。それこそ即ち膨大な魔力量であり、彼女の魔力量は同格同世代の他の神の子とは隔絶された驚異的な量を誇るのだ。
そんな膨大な魔力が、地界を保護する為に用意された天魔の理を破って際限無く放出されているのだ。最早崩壊するなという方が難しい迄あるだろう。それこそ、今尚崩壊せずに形を保っているだけでも凄い方なのだ。或いは、彼女の魔力を打ち消す何かが何処からか放出される事で釣り合いを取っているのかも知れないが、それは誰にも認識される事は無かった。
兎も角、そんな訳でアルピナの周囲一帯は嵐と呼ぶのも烏滸がましい程の魔力が吹き荒んでいる。中心に浮かぶアルピナの背中からは彼女の種族階級を示す三対六枚の悪魔の翼が顕現し、恐ろしさ及びそれと反転した美しさが両立していた。
また、魔力嵐によって彼女が身に纏うロングコートもミニスカートも激しく靡き、その隙間から覗く雪色の肌は非人間的な冷徹さを微かに滲出させているかの様だった。そして何より、彼女を悪魔足らしめる金色の魔眼が蛇の様に鋭利な眼光を放ち、周囲一帯の大地を隈無く見下ろしていた。
「落ち着きなさい、アルピナ‼」
そんな彼女に声を掛けるのは他でも無いスクーデリアだった。彼女もまた上空へと浮かび上がり、アルピナの正面に浮かんでその瞳を真っ直ぐと見つめて真摯に訴えかけていた。それは友人を心から心配しているからこその眼差しであり、本質的に宿る上品さも相まって非常に美しいものだった。
そんな彼女の背中からも、アルピナと同じ様に彼女を悪魔足らしめる様な漆黒色の翼が顕現している。尚、その翼の枚数はアルピナのそれより少ない二対四枚であり、これは彼女の階級がアルピナよりも低い事を物語っていた。
実際、スクーデリアでさえもこの吹き荒ぶアルピナの魔力嵐の中では天魔の理を無視して翼を顕現させなければ真面に行動出来無いのだ。悪魔の翼は悪魔の力の象徴。地界にいる間は余り顕現させたくないそれを敢えて顕現させなければならないのだから、その厳しさは明らかだろう。
また、アルピナもスクーデリアもその身に纏っていた認識阻害の魔法は疾うに消え去っている。アルピナが放つ膨大な魔力嵐を前にして、最早魔法を維持する事すら困難だったのだ。まるで風に舞う枯葉の様に認識阻害の魔法は何処かへと吹き飛ばされ、彼女らの魔王としての正体を隠すものは何も無くなっていた。
とは言っても、今更そんなものは如何でも良かった。周囲一帯を破壊し尽くす魔力をこれ程迄に放出させまくったのだ。今更正体を隠した所で何の意味も無いのだ。それに、認識阻害はまた掛け直せばその都度効力を発揮する。何も悔やむ必要は無かった。
それよりも、今は眼前のアルピナを如何にか宥める方が先決。この儘ではこの町処かこの世界が跡形も無く消し飛んでしまう。そうなってしまえば龍魂の欠片探し処の話では無くなり、そうなってしまってはアルピナ-ジルニア間で結ばれた約束を果たす事さえ出来無くなってしまう。
だからこそ、スクーデリアは如何にかアルピナを落ち着かせようとしたのだ。それこそ、何時に無く声を荒らげてしまう程には彼女自身もまた焦っており、普段通りの思考回路は何処かへと消し飛んでしまっていたのだ。
「落ち着けだと⁉ 巫山戯るな!」
ワタシのせいだ、とばかりにアルピナは怒りの情に囚われる。焦燥と憤りによって理性が吹き飛び、それに伴って呼吸はドンドン速く浅くなる。そして、視界はグルグルと混濁し、意識が吹き飛びそうな程の激情が魂の深奥から止めど無く湧出する。
まるで自分が自分ではなくなりそうな程に理性が消耗し、持って生まれた本能的な暴虐性が理性の殻を突き破って表出する。それはまるで神龍大戦直前の諍いでセツナエルと正面から対立していた時の彼女に戻っているかの様だった。
怒声に伴って激しさを増すアルピナの魔力嵐を前に、スクーデリアは腕で顔を覆ってその嵐から身を護る。柔らにウェーブを描きつつ腰に届く程の鈍色の長髪が激しく音を立てて靡き、閉じられない金色の不閉の魔眼は如何にか彼女の魂を捉えようと輝きを増す。
次回、第364話は9/28公開予定です。




