第359話:悪魔達の茶会Ⅲ-②
果たしてヴェネーノはどの様な生活を送って来たのか。それは、今から数千年前にバルエルに敗北し天羽の楔に囚われてしまった事、その天羽の楔によって悪魔としての記憶と力を全て奪われてしまった事、シンクレアの様に拘束を受ける訳でも無く一人で放逐された事、それらを加味すれば容易に想像出来るだろう。
つまり、アルピナ達に救われる迄の数千年間、たった一人で力も記憶も無く漠然とした目的意識だけを頼りに放浪していたという事だ。最早想像する事すら憚られる様な孤独と絶望。或いは、想像する事すら烏滸がましいのかも知れない程だった。
しかも、力と記憶は奪われたものの、しかし神の子としての身体構造は少しばかり残っていた。詰まる所、人間の様にそう簡単に傷付く事は無いし、何なら死ぬ事すら容易では無かったのだ。それこそ、神龍大戦の終戦に伴って大半の神の子が地界から去ってしまっていた当時の情勢下では、その身体に傷を付けられる存在は非常に限られてしまうのだ。
しかし同時に、記憶も奪われた事はある意味バルエルなりの温情だったのかも知れない。記憶を全て奪われてしまっていたからこそ、その置かれてしまった悲惨さに対して表面的な絶望しか認識される事は無かったのかも知れない。
だからこそ、若しこれが記憶だけはその儘で力だけを奪われていたとしたら、果たして今の時代迄平常心でいられただろうか? 幾ら神の子として悠久の時を生きてきたとは雖も、無力と孤独が綯交された絶望の前で且つそれが何時迄続くのかすら不透明だったとしたら、とても平常心を保つ事は出来無かっただろう。
そういう訳で、クィクィのその言葉は純粋な称賛によって紡がれる感想だったのだ。しかも、そんな彼女の感想を前にして、スクーデリアだけでは無く更にはアルピナ迄も、同情と称賛に染められた眼差しをヴェネーノに対して向けていたのだった。
「まぁ、それなりにはね。でも、記憶を奪われて右も左も分からない状況だったから、意外と如何にかなったよ。それに、たかが数千年だったしね。未だ未だ僕は若いけど、それでもこれ迄生きてきた時間から比較すれば如何という事は無いからね」
実際、ヴェネーノは悪魔である事から普通の人間とは比較にならない程の長い長い時を生きている。それはこの星の暦で換算して約10,000,000年。それを考えれば、たかが数千年程度は記憶が無くても体がその短さを覚えているのだ。
だが、幾ら10,000,000年生きてきた彼でも、実際の所は彼の言う通り神の子全体で見ればかなり若い。それこそ草創の108柱は別格として、クィクィ処かセナやアルテアよりもかなり若い。彼彼女らですら、ヴェネーノの数倍は長く生きているのだ。
「あぁ、結果的にはその長くも短い経験を身体が覚えていてくれたお陰で、たかが数千年の孤独にも君は耐えられた。それだけで良いだろう?」
「まぁね。こうして記憶と力を取り戻せても当時の事は上書きされずに全部覚えてるし、何だかんだ言っても良い経験になったと思うよ」
孤独に苛まれた数千年を思い返し乍ら、その間に経験した凡ゆる出来事に対する率直な思いをヴェネーノは吐露する。これだけの辛く苦しい経験を強いられてそれだけの感想を零せる当たり、何と心優しい性格をしている事だろうか。或いは、只単に極度のお人好しなだけなのかも知れないが、しかし最早過ぎた話である。彼自身がそれを良い経験だと感じているのであれば最早それで構わないだろう。
だが、そんな彼の言葉に対して何処か意地悪色に染まる笑顔を浮かべたのは他でも無いアルピナだった。彼女は猫の様に大きくやや吊り上がった蒼玉色の瞳を冷たく輝かせ、傲慢さと傲岸不遜さを滲ませる冷たい笑みを湛えるのだった。
「ほぅ、全て覚えているのか。それでは、ワタシ達の前で純粋無垢な少年色の態度振る舞いを前面に押し出していたあれも全て憶えているのだろうか?」
「そ……それは、まぁ……一応は……」
悪戯好きな少女然とした可愛らしくも憎たらしい笑みを浮かべるアルピナに対して、ヴェネーノは恥ずかし気に顔を俯かせる。微かに耳は紅潮し、よく見えないが顔面全体も同じ様に紅潮しているであろう事は容易に想像出来る。
勿論、それ自体は決して悪い事では無かった。記憶を奪われた挙句に数千年も放逐され、何が何やらさっぱり不明な状況下で、心がそれと無く覚えている懐かしき温かみと再会した結果があれだったのだ。最早当然の帰結と言って差し支え無いだろう。
だからこそ、アルピナも決してあれを悪いと言っている訳では無い。只単純に面白おかしく揶揄しているだけに過ぎず、丁度良い暇潰しとして利用しているだけに過ぎないのだ。殺伐とした天使と悪魔の抗争の間に差し込まれる気分転換の材料としては格好の餌だったというだけの話なのだ。
それでも、仮令それが頭では分かっていても、心で受け入れられるかは全くの別問題なのだ。というのも、悪魔の命は長い。外的要因によって肉体に強制的な死を与えられない限りは永久の時を生きる事が可能であり、仮に肉体が死滅しても時間さえあれば何れは復活出来る可能性が高いのだ。
それはつまり、今後永久に亘ってその話題で弄られる可能性があるという事。しかも人間の様にそう簡単に関係を絶てない事も相まって、その可能性はほぼ確実なものへと昇華されている。しかも、アルピナは悪魔公である為、如何頑張っても絶縁する事は出来無いのだ。
加えて立場的にもアルピナの方が上であり、一介の伯爵級悪魔でしかないヴェネーノでは、この状況を覆す一手を打つ事は出来無い。だからこそ、彼に残された能動的解決手段は諦める事の唯一つだけだった。
アルピナは窓枠に頬杖を突きつつ、もう一方の手で紅茶の注がれたティーカップを口元に近付ける。温かな湯気が尚も立ち昇るそれに口付けられた彼女の口唇は艶やかしい紅色に染まり、漆黒色のミニスカートから伸びる組まれた雪色の御御足も相まって、その出で立ちは稚い少女然とした可憐さと艶やかしさが両立していた。
しかし、そんな彼女の姿はヴェネーノの視覚には映らない。恥ずかしさに肩を落として如何しようも無い絶望感に打ち拉がれるだけだった。それこそ、数千年孤独に彷徨っていた当時よりも酷く落胆し、それはもう悲惨な姿だった。
だからこそ、そんな二柱の遣り取りを前にして、スクーデリアは大きな溜息を零す。貴族令嬢然とした気品ある姿形は手にした紅茶も相まって非常に麗しく、とても眼前で繰り広げられている世俗的な悪戯色と席を同じくしているとは思えない程だった。
だからこそ、彼女はそんな遣り取りを交わらせるアルピナを柔らに制止する。余りにも発達し過ぎたが為に消せなくなった不閉の魔眼を狼の様に妖艶に輝かせ、或いは氷の女王の様な鋭利な眼差しでアルピナの魂を射竦める。
「止めなさい、アルピナ。ヴェネーノが可哀そうでしょう?」
まったく、と改めて溜息を零しつつ、彼女はアルピナに静かに語り掛ける。それはまるで活発な愛娘の監督に手を拱く母親の様であり、苛立ちこそ抱いていないものの何処か呆れた様な感情の香りが微かに感じられる。
「ほぅ、てっきり君もワタシやクィクィと同じくあの状況を楽しんでいたのだと思っていたが、如何やら違った様だ」
ワザとらしく驚いた様な相好を浮かべつつ、アルピナはスクーデリアに反論する、果たして本心からそれを思っているのか、将又状況をより混濁させる為に敢えてそういう体で話しているのかは定かでは無いが、何れにせよヴェネーノをより困らせる事だけは確かだった。
次回、第360話は9/22公開予定です。




