第357話:撤退
そんな彼女らが交わしている秘密裏で仲睦まじい遣り取りは一先ず置いておいて、クオンはアルピナが出した結論にやや意外そうな相好を浮かべる。情報を握った人間を見逃す、という選択肢を彼女が選択したという事実に対して、彼の脳は一瞬だけ理解する事を拒絶してしまっていたのだ。
「意外だな。お前の事だから、てっきり即始末するものだと思っていたんだが……」
「君はワタシを何だと思っている? 流石のワタシも、無闇矢鱈に殺戮を好む様な悪辣な性格をしている訳では無い。尤も、殺そうと思えば何時でも殺せるがな。だからこそ、今直ぐに事を荒立てる必要も無いだろう?」
やれやれ、とばかりに呆れつつ、アルピナはクオンの感想を否定する。君は随分酷い事を言うな、とばかりに僅かな悲しみが滲出する相好を顔面にワザとらしく貼付し、されど瞳は決して悲しんでなどいなかった。
寧ろ、彼女のそれは何処かこの状況を楽しんでいる迄ある雰囲気だった。それこそ、クオンが種族や立場階級に囚われない自由で気楽な態度振る舞いをぶつけてくれる事に対して、喜びすら見出している始末だった。
果たして彼女がそこから何を見出してその感情を発露しているのか、クオンには定かでは無かった。しかし、問い質してもまたはぐらかされるのは目に見えている為、彼はその思いをそっと心に仕舞い込むのだった。
また、そんな彼彼女が抱く独特な雰囲気は、決して触れてはならない不可侵なものへと昇華してしまっている様だった。取り分けその理由を理解しているスクーデリアとクィクィとアルテアは、尚の事だった。
だからこそ、彼女らはアルピナとクオンの仲睦まじくも平和的で牧歌的な空気感に対して、温かさを内包する微笑みを浮かべる。或いは、今の時代を生きるヒトの子では到底理解出来無い程に昔の彼是をそこに投影する事により、懐かしさを見出しているかも知れない。
尚、つい先程天羽の楔から解放されたばかりであるが故にイマイチ状況を理解把握出来ておらず、しかしアルピナやその背後事情について多少だが知らされているヴェネーノだけは、少々面喰らった様な反応を示していた。
というのも、アルピナがこれ程迄に穏やかで平和的な態度振る舞いを見せているのだ。しかも、何処から如何見ても人間にしか見えない男を相手に。果たしてこれがどれだけ異常なのか、それを理解出来るのは過去のアルピナを知っている者に限られるだろう。
過去のアルピナは、今の彼女とは少しだけ、しかし明確に異なっていた。過去の彼女は、只の一度だって人間を相手にこれだけ心を開いた事は無い。或いは同じ神の子、それこそ同じ悪魔同士であっても、此処迄心を開く事は非常に稀な事なのだ。
それは、ヴェネーノが知っている範囲に限定すれば僅か数柱に限られる。勿論、彼の知らない彼女の交友関係に迄話を広げれば多少は増えるかも知れないが、しかしそう大きく変わる事は無いだろう。それは、確信出来る。
だからこそ、クオンを相手に此処迄心を開いて対等に接しているアルピナの姿は、ヴェネーノが持つ常識の範囲には存在しないのだ。それこそ、空から雨の代わりに槍が降ってくる事が日常茶飯事となる程度には有り得ない事なのだ。
しかも、只心を開いているのではなく、冗談を交えた牧歌的な遣り取り迄交わしている。彼女が此処迄心を開く様な相手ともなれば、それは非常に限られてくる。幾星霜の彼方より互いに信用と信頼の糸を紡ぎ続けてきた様な相手でも無い限り、此処迄の事はしないだろう。
故に、ヴェネーノは眼前のその光景に対して、只茫然と目撃する事しか出来無かった。態度振る舞いを奏でる事も無く、言葉で以て会話に交ざる様な事も無く、只少し離れた場所から静かに事の成り行きを見守る事しか出来無かった。
一方、そんなヴェネーノは捨て置いて、アルピナとクオンの談笑は続く。戦いが一段落したという事もあって、これ迄溜め込んできた緊張の糸が一気に解れ、結果的に会話に華が咲き誇っている様だった。果たしてこんな平原のど真ん中でする様なものなのかは甚だ疑問だが、しかし当事者達が楽しければそれで良いのだろう。
「まぁいいか。俺が兎や角言うよりも、お前らに任せた方が何倍も確実だからな」
微かな溜息とも苦笑ともとれる呼息を零すと共に、クオンは静かに呟いた。それに対してアルピナは何かしら答える訳でも無く、只静かに彼に対して微笑みを返すだけだった。そして、そんな二人の間に割って入る様に、クィクィが言葉を差し込むのだった。
「そんな事よりさ、これから如何する積もり?」
何処か不満げな相好から同じく不満げな声色と口調で言の葉を紡ぐクィクィは、特定の誰かに尋ねる訳では無く全体に問い掛ける。少年の様にも少女の様にも見える特徴的な髪形と雰囲気を携えた彼女は、如何やら人間好きな影響かこんな何も無い所に突っ立っているのは退屈で敵わないらしい。
そんなクィクィの言葉に対して真っ先に反応したのは、他でも無いアルピナだった。立場階級的にはアルピナの方が上なのだが、過去に散々迷惑を掛けたお陰もあってか、今になってもアルピナはクィクィに対して頭が上がらないのだ。
だからこそ、アルピナはクィクィの声に対しての反応は非常に素早かった。それこそ、身体がそれを覚えている、とでも言いたげな程であり、それは彼女にとってクィクィという存在が相当な高さに君臨している事の表れだった。
「そうだな……此処にいても最早何もする事はないだろう。かといって町に戻る必要も無いだろう。何より、幾ら認識阻害で人間の目は誤魔化せるとは雖も、我々が近くにいるだけでセナやアルバートの邪魔になるやも知れない」
だからこそ、とアルピナは一つの提案を投げ掛ける。決して命令を下している訳では無く、それはあくまでも対等な目線での問い掛け。立場や階級に依存した明確な上下関係を重要視しない悪魔だからこその態度振る舞いだった。
「一度王都に戻るとしよう。あの町はこの国の中心。色々と都合が良いからな」
アルピナはグルリ、と全体を見渡す。如何やら、反論や拒絶の意思を見せる者はいない様だった。尤も、する理由が何処にも見当たらない事から、それは当然だろう。勿論、早くワインボルトを助けたい、という思いだってあるが、しかし休息だって必要なのだ。
だからこそ、そうと決まった彼彼女らの動きは早かった。幸いにしてこの場には空を自由に飛べる者しかいない為、その移動方法についても迷わなかった。其々《それぞれ》魔力か龍脈か龍魔力を身に纏うと、それを介して魔法なり龍法なり龍魔法を起動する。そして、それによって宙に浮かんだ彼彼女らは、早速とばかりに王都へ向かって移動を開始するのだった。
その移動速度は、非常に速い。それこそ、同じく空を舞う凡ゆる鳥類をも凌駕する速度であり、発生する衝撃に巻き込まれた鳥達は其々《それぞれ》驚きと共に彼方へと飛び去る。また、地上からそれを目撃する事は出来ず、大地を歩む人間達は、何も知らない平和な青空の下で何も知らない平和を満喫するだけだった。
『アルピナ達が何処かに行ったな』
『みたいだね』
またベリーズでは、そんなアルピナ達の様子を魔眼で確認しつつセナとアルバートとルルシエは安堵の溜息を静かに零す。というのも、彼女らが此処を去るという事は、無事に事が終結したという知らせでもあるのだ。状況が漸く一段落した事を祝う様に、彼彼女らは英雄としての職務に戻るのだった。
次回、第358話は9/20公開予定です。




