第355話:シンクレアの帰還
「余り早くされては此方の準備も間に合わないからな。多少は手間取ってくれる事を期待しておこうか」
それだけ言い残すと、シンクレアはアルピナから目線を外す。最早何も伝える事も伝えられる事も無い、と結論付けるそれは、しかし決して独り善がりな行動では無かった。それを受けるアルピナもまた、態度振る舞いにこそ表していなかったものの、心の中では同様の事を考えていた様だ。
しかし、そんな彼の態度振る舞いは、ものの数瞬で遮断される。あぁそれと、とばかりに改めて地上へと視線を向け直した彼は、その金色に輝く龍眼をアルピナでは無くその傍で静かに立ち並んでいるヴェネーノへと向ける。
「そういう訳だ、ヴェネーノ。悪いが俺は、一足先に龍の都に戻らせてもらう。今回はお互い無事だったが、また次龍装を組む時の為にも無駄死にはするな。尤も、アルピナ達がいれば死ぬ様な事態には陥らないだろうがな」
そう言うと、シンクレアはヴェネーノからの返事を待つ事も無く再び上空へと舞い上がる。大きな翼を鷹揚に羽ばたかせ、周囲の空気を嵐の様に吹き荒ばせる。それこそ、予期せぬ自然災害が突発的に人間社会を狙う様に意思を持って発生した、と感じる程に強力な風が舞い上がった。
そんな周辺環境には一切目もくれる事も無く、シンクレアは上空を旋回する。そして一頻りベリーズ周囲の上空を遊覧飛行した彼は、地上の空気を懐かしむ様に空の彼方へと消えていった。神の子がよく使用している渦は生憎天界・魔界・地界の三界同士しか繋げられない。その為、龍脈へ出る為には多少面倒でも自力で飛んでいくしか無かったのだ。
それに、態々《わざわざ》渦を介して移動しなくても龍には帰巣本能がある。その為、龍の都の正確な位置は全て手に取る様に認識出来る。加えて、三界及び龍の都を包む龍脈は、その内部構造が空気ではなく龍の根源である龍脈で構成されている。詰まる所、天界が聖力で満ちていたり魔界が魔力で満ちている様なものだ。
故に、自力で飛行する事に対しては多少時間が掛かる事以外に特別問題は無い。寧ろ、自らの根源と同一性質を持つ龍脈に包まれ乍ら飛行出来る分、普段より速く飛行出来るのだ。それこそ、水を得た魚の様な状態と言えば分かり易いだろう。尤も、魚は水が無い環境では生きる事さえ儘成らないのだが。
それは兎も角、そういう訳で、シンクレアは真っ直ぐと龍脈を目指す。その為にも、彼は先ずこの国の外へと飛び出し、その後はこの星の外へと、そして更には人間達が宇宙空間と呼ぶ領域、即ち地界へと縦貫する様に、脇目も振らず直進するのだった。
軈て、瞬く間にシンクレアの姿は上空の彼方へと小さくなっていく。幸いにして彼の巨体のお陰か、或いはアルピナ達神の子特有の視力の良さ故か、未だ辛うじてその姿は目視で確認出来る。しかし、もう間も無くもすれば完全に見えなくなってしまう事だろう。勿論、魔眼を開けば龍の都に入る迄は追跡出来るが、しかしそこ迄親切丁寧に見届ける必要も無いだろう。だからこそ、アルピナもクィクィもヴェネーノも、上空彼方へと飛び去るシンクレアに対して大した名残惜しさも抱く事無く視線を外すのだった。
そして、丁度そんなタイミングを見計らったかの様に、シンクレアが飛び去っていった方角とは反対側の空から、三つの影が襲来する。何れも人間の様な姿形をしており、加えて殺気立っている様子は微塵も感じられなかった。
だからこそ、アルピナもクィクィもヴェネーノも、そして彼女らから少しばかり離れた地にいたスクーデリアとクオンもまた、その影に対して警戒心を浮かべる事は無かった。寧ろ、それが来るのを待ち望んでいたとでも言いたいかの様に、揃ってその影、即ちアルテアとレイスとナナを素直に迎え入れるのだった。
彼彼女らはスクーデリアとクオンの直ぐ傍に降り立つ。そして、彼彼女らにクオンとスクーデリアを加えた総勢五名は、其々《それぞれ》漸く事が落ち着いた事を安堵するかの様にアルピナとクィクィとヴェネーノの傍へと歩み寄る。
「無事に終わったのか、アルピナ?」
代表して問い掛けるのはクオン。アルピナとは契約に伴う魂の回廊で深く結び付いた間柄であり、それにより彼女とはこの場にいる誰とも負けない深い情で繋がっている。それこそ、スクーデリアやクィクィとも張り合える程の信頼と信用が、相互に掛け渡されている。
だからこそなのだろうか、アルピナもまたクオンの言葉を決して蔑ろにする事は無い。彼の言葉を真摯に受け止め、或いは気味が悪い程の穏やかさで受け入れる。そしてそれを示すかの様に、その外見的可憐さに相応しい声色と普段通りの傲慢で冷徹な口調で彼に言葉を返す。
「あぁ、問題無い。しかし、態々《わざわざ》そこ迄離れずとも、君も近くにいても構わなかったのだがな」
感情の読み取れない溜息を零しつつ、アルピナはクオンの行動に対して呆れる。それは普段と変わらない彼女らしい打切棒な態度振る舞いだが、しかしそれに対して微かな反応を見せた者が僅かに存在した。
つまり、純粋な神の子の中でもスクーデリアとクィクィだけは、アルピナの態度振る舞いに対して眉をピクリと反応させる。その顔色はまるで、クオンをシンクレアと触れ合わせても良いのか、という疑問を提示しているかの様。しかし、それは両者の口から零れる事は無く、その儘二柱の思考の海に沈むのだった。
一方、そんな事情を露と知らないクオンは、その儘アルピナに対して質問を重ねる。只のヒトの子でしかない彼では、今正に眼前で行われた全ての事象がまるで意味不明な事象でしか無かったのだ。だからこそ、心の中に靄の様に巣くう疑問を払う為にも、如何しても問わずにはいられなかったのだ。
「それで、何が何やらさっぱりなんだが、色々と説明をもらえるか?」
「今正に飛び立ったのが、我々悪魔や天使と共に神の子三種族の一角を占める龍だ。君達人間が化石として発掘している竜の正体があれだ、と言えば多少は想像し易いか? 尤も、彼彼女らに関しては、君の様な人間よりもそこにいる龍人の方が理解がスムーズだろうがな」
アルピナの目線は、真正面に立つ自身の契約相手クオンからその直ぐ近くでアルテアと肩を並べている二人の龍人レイスとナナへと移動する。蒼玉色の瞳を金色の魔眼に染め替え、二柱の魂を《つまび》詳らかにしようと具に観察するのだった。
その眼差しを受けて、レイスとナナは思わず震え上がる。それは、その眼差しが持つ冷酷さや傲慢さに由来する恐怖では無く 、二人の体内を流れる龍の血が知覚する悪魔という種に対する相性差に由来する根源的な恐怖だった。
また、その恐怖はレイスとナナをこの場に連れてきたアルテアにも波及する。何故此処に連れてきた?、と言外に含むその眼差しを前にして、彼女は嘗て無い恐怖に襲われたのだ。改めて悪魔公という立場の強大さや自身の立場の弱さを自覚する様に、彼女はアルピナを直視する事が出来無かった。
「あら、レイスにナナも、久し振りね。元気にしていたかしら?」
一方、そんなアルテア達の恐怖やアルピナの眼差しなどまるでお構い無しに、スクーデリアは二人に語り掛ける。普段の知的で冷静沈着な彼女の態度振る舞い乃至性格からすれば、此処迄状況を顧みない態度を取るなんて非常に珍しい事だった。
しかし、これはこれで彼女なりの気遣いなのだろう。恐怖から意識を逸らしつつ会話の輪に自然と混ざれる様に、と考えられた結果として生み出された態度振る舞いこそが正しくこれだったのだ。だからこそ、それを示す様にレイスもナナも、眼前のアルピナから語り掛けてきたスクーデリアへと意識が自然に写っていた。
次回、第356話は9/18公開予定です。




