第353話:シンクレアとヴァ―ナード
「さて、契約はこれで良いだろう。尤も、幾ら悪魔が契約に基づかない行動を取らないとはいえ、もう少しはワタシを信用してもらいたい所だがな」
「まさか、お前が悪魔だからこそそうしなくてはならないだけだ。お前の事は信用も信頼もしている。何より、あの皇龍様とは相思相愛の仲だったのだからな」
龍故に天使や悪魔の様に表情は豊かでは無く、どんな感情を抱いていようともその顔立ちは決して変わらないシンクレアだったが、しかしアルピナに対する物言いには少しばかり笑みが零れている。それも、嬉しさに伴う笑みでは無く、悪戯色に染まった憎たらしい笑みだった。
やれやれ、とアルピナは、そんなシンクレアの態度に対して溜息を零す。しかしそれは、決して呆れている訳では無い。何方かと言えば、彼の言葉に対する照れ隠しによるものだった。憖彼女自身としては否定出来ても対外的には如何取り繕っても否定出来無い事を、彼女自身認識していたのだ。
「またその話か? 何度も言うが、生憎ワタシとジルニアは君達龍が考えている様な関係には当たらない。抑、君達といいセツナエルといいクィクィといい、何故そうもワタシ達をそういう関係にしたがる?」
「皇龍様もそうおっしゃっていたが、しかしもっと素直になっても構わないとは思うのだがな。神の子とは言え、多少の遊びは許されるだろう?」
何処と無く上から目線な態度と物理的に上から見下ろされる眼差しに対して、アルピナは何も答えなかった。微かに頬を紅潮させ、しかしそれを誤魔化す様に溜息を零す。だが、如何やら彼女としても悪い気はしていない様子。悪魔とは言え、生物学的には女の子。多少の色恋には本能的な情動が生まれるのかも知れない。
尤も、それはアルピナ自身気付いていないのかも知れない。或いは、気付いていて尚それから目を逸らす様に敢えて無視しているのかも知れない。冷酷で傲慢な彼女の本質的性格は、そういう俗物的な情動を似つかわしくないと否定しているのだった。
さて、とアルピナは自身のそんな情動を誤魔化す様に話題を転換する。それは、この話題から逃げたかったから、というのが最も大きい。或いは、戦闘終わりという事もあってそろそろ一休みしたかったのかも知れない。将又、今尚天使に囚われているワインボルトを早く助けたいという思いや、ジルニアに早く会いたいという願望によるものかも知れない。
果たしてそのどれが正解なのかは定かでは無いが、しかしどれも正解なのだろう。恥ずかしさから逃げたいのも、そろそろスクーデリアやクィクィと共に紅茶でも嗜み乍ら休みたいのも、ワインボルトを助けたいのも、ジルニアに会いたいのも、どれも的を得ているのかも知れない。
「無駄話はこの辺りに留めるとしよう。ワタシも君も、未だすべき事がまだ残っている。腰を据えてのんびり御喋りにでも興じるのは、それが全て片付いてからでも良いだろう」
「如何やらその様子では、天使長を止める手立てがある様だな。或いは、お前だからこそ止められる、とでも言った方が良いか?」
「何方かと言えば後者の方が近いだろう。確約は出来兼ねるが、しかし彼我の仲だ。全くの不可能では無い。それに先日神々の宮殿を訪れた際にあの子と会ったが、如何やらあの子自身そこ迄事を荒立たせる積もりは無い様だ」
そういえば、とばかりに記憶を思い返し、アルピナは呟く。つい先日、それこそベリーズを来訪して以降という最直近の記憶だ。決して記憶違いの筈は無い。それでも、何処と無く不思議な、《ある》或いは不明瞭な思い出だった。
「抑の動機は如何なんだ? 神龍大戦の勃発となった直接的原因こそ明らかだが、しかしお前なら兎も角あの子があんな事をしたのだ。それ相応の理由がある筈だろう?」
「一言余計だが……しかし生憎、ワタシにもそれは不明だ。幾らワタシとあの子が血の回廊で結ばれた二娘一の関係に当たるとはいえ、そういった情報までは入らないからな」
「そうか。では、来るべきに備え、此方としても相応の覚悟はしておこう。龍王様にも協力を仰いでおく。神龍大戦の再来とでも言えば、嫌でも動かざるを得ないだろうからな」
そう言うと、シンクレアは蜥蜴の様な躯体の背中から伸びる一対の大きな翼を羽ばたかせる。そこから発生される突風は嵐と呼ぶのも烏滸がましい程の突風となり周囲を吹き飛ばす。それこそ、根こそぎ消し飛ばすと言った方が良いかも知れない。
しかし、それ程の突風を目鼻の前で生じさせられているにも関わらず、アルピナもクィクィもヴェネーノも、何ら態度振る舞いを変える様子は無い。それこそ、微風を前にした時の様な穏やかで静かなそれでしかなかった。
それは偏に、彼女らも彼と同じく神の子である為。どれだけその突風が神の子によって巻き起こされた強烈な代物であろうとも、しかしヒトの子が暮らす領域内で生じる程度のものを前にして彼女らが動じる訳が無かった。
或いは、すっかり慣れてしまったのかも知れない。悪魔と龍は相性差は別として比較的仲良し。神龍大戦にて共に手を取り合う事で天使長セツナエルの悪意に立ち向かった、所謂相棒の様な存在でもあるのだ。つまり、数千万年を優に超す年月を肩を並べて歩み続けてきたのだ。だからこそ、それは日常の一つとして身体に染み付いていたのだ。
そして、シンクレアの巨体は浮かび上がる。果たして幾ら大きいとはいえたった一対の翼でこんな巨体が浮かぶのだろうか、という疑問は如何しても拭えないが、しかし彼もまた龍であり、詰まる所神の子なのだ。
その為、多少物理法則に反した行動を取った所で、恐らく龍脈を上手い事所操作しているか龍法のお陰なのだろうな、と凡その見当が付く。尤も、現状それを観測しているのは挙って神の子しかいない為、最早その行動を疑問に思う常識すら存在していないのだが。
そうして少しばかりシンクレアの躯体が浮かび上がった所で、アルピナは不意に彼を呼び掛ける。そういえば、とばかりにハッとした相好を浮かべつつも、同時にその右手は彼女自身の異空収納へと伸びていた。
「シンクレア。龍の都に帰還するのだろうが、その前に少しばかりお土産だ」
異空収納から目的の物を取り出したアルピナは、それを対象に魔法を発動する事でそれを宙に浮かせる。そして、魔力操作と同じ原理法則を駆使する事でその対象物を操作し、決して早くも無ければ遅くも無い速度でシンクレアの鼻先に迄移動させる。
「これは……!?」
金色の龍眼を開いてその対象物の正体を確認したシンクレアは、咄嗟に瞠目する。思わず、自分の龍眼の精度を疑ってしまった。若しかしたら嘘偽りなのではないか、とばかりに疑心暗鬼に陥り、しかしそれが真実である事を強く信じるのだった。
「ヴァ―ナードの龍剣だ。魂が霧散した後、器だけはこの星に残っていたらしい。年月が経過したお陰で肉体の回収は不可能だったが、しかし角だけはこの時代迄残っていた様だ。生憎人間の手によって剣へと変えられてしまった様だが、しかし何も無いよりはマシだろう?」
ヴァ―ナードもまた、悪魔と共に神龍大戦を戦った数多の龍の一柱。その中でもシンクレアとは取り分けて仲が良かった一柱であり、アルピナの記憶が正しければお互いの幼馴染の様な関係に当たる筈の存在。
果たして何時から行方が知れなくなったのかはシンクレア自身覚えていないが、しかし暇さえあれば探していたのは記憶に新しい。魂さえ見つかれば、或いは魂が見つからなくてもせめて肉体だけでも龍の都に連れて帰ろう、と何度も何度も探し求めていた大切な友人だった。
次回、第354話は9/16公開予定です




