第350話:龍装の分離
さて、とヴェネーノは気持ちを切り替える。確かにアルピナのお陰で心身及び魂は問題無いレベルに迄回復出来たが、しかし未だ重要な問題が残っていた。つまり、他でも無い今尚龍装によって自身の魂と深く結び付いているシンクレアの事だった。
生憎、此処はヒトの子の住処たる地界。それも、生命が存在する一つ星であり、その中でも人間種が直ぐ傍で文化文明を形成している様な場所。言い換えれば、ヒトの子の五感が直ぐ傍に迫っている場所という事だ。
それの何が問題なのか。表面的な状況を聞き及ぶ限りでは何ら問題無い様にしか感じられない。只近くに人間がいるというだけの話。しかし、問題はそこではない。問題とは即ち、シンクレアが龍だという事なのだ。
龍は文字通り龍であり、決して人間やその他ヒトの子では無い。確かに、天使と悪魔は人間を創造する際の基本モデルとして採用され、それ以外のヒトの子は龍の姿形を基準にして創造された歴史はある。その為、神の子とヒトの子は比較的近しい関係にあるとも言えるのだ。
しかし、それは当時の歴史。現在の認識でそれを語る事は出来無い。天使と悪魔は言わずもがな、龍だって今の人間社会では実在性を保証されていないのだ。あくまでも空想上の産物だったり創作物上のキャラクターとしてしか見做されていないのだ。
そんな状態で龍装を解除し、龍としての姿を顕現させてしまったら如何なってしまうだろうか? 只でさえ魔獣やら魔王やらで人間社会はかなりの恐慌状態へと陥ってしまっているのだ。その状態で更に龍などという存在が現れでもしたら、仮に実害が無かったとしても決して安心は出来無いだろう。今は実害が無くても次もそうだとは限らないのだ。凡ゆるヒトの子をも上回る巨体を前にして、人間如きでは何一つ備える事は出来無いのだ。
尚、此処プレラハル王国にはレイスやナナと言った所謂龍人と呼称される存在が生息している。龍と人間の間に生を受けた新たな命並びにそこを祖とする子々孫々とされている彼彼女らの存在を認めている限り、一定の信憑性を微かに抱いているのだ。
だからこそ余計に、龍などという存在が知覚され認識され記憶されるとなると、何も知らない者達以上の恐怖に囚われてしまい兼ねない。或いは、龍の子孫を自称する龍人たちに対して何か良からぬ企みを抱き兼ねないのだ。
そういう訳もあって、ヴェネーノを始め此処にいる誰もがシンクレアの解放を少しばかり躊躇っていた。とは言っても、神の子である彼彼女らの価値観に照らし合わせればヒトの子など取るに足らない管理すべき数字の一つでしかない。その為、そこ迄深刻に悩んでいる訳では無かった。
「シンクレアは……如何するべきかな? 暫くは龍装を組んだ儘の方が良い?」
「……いや、解放しても構わないだろう。確かにヒトの子に龍の存在を知覚される恐れはあるが、しかし所詮はその程度。神の子に関する認識が欠落している以上、大した騒動には至らない。尤も、仮に生じた所でそれもたかが知れているだろうがな」
ヒトの子、その中でも取り分け人間の弱さを嘲笑しつつ、アルピナはヴェネーノの言葉を否定する。別に悪魔公とは言っても天使長が天使を指揮している様に明確な上位階級に君臨して全悪魔を支配している訳では無い為、自由意志に基づいて好きな様にしてくれて構わないのだ。しかし、彼が不安に思う気持ちも分からない事は無い為、彼女はそれをそっと胸に仕舞い込む。
何より、ヴェネーノは神の子全体で見ても比較的若い部類。ルルシエ達新生神の子と比較すれば十分古いが、しかし要はその程度でしか無いのだ。その為、先達の知恵を最大限活用する事に何ら躊躇いは無かった。悪魔公アルピナという全神の子の中でも指折りの上位者が相手だからこそ、言質を取る事に対するメリットが非常に大きいのだ。
ふぅ、とヴェネーノは息を吐き零す。全身に漲る龍装の力を霧散させ、全身の緊張を解していく。戦闘中でも無いのに戦闘中と大差無い様な覇気を如何にかこうにか抑え込んでいくその態度振る舞いは、嘗て何度も龍装を組んできたからこそ成せる慣れの技量だった。
軈て、彼の全身から漲る龍魔力はその存在感を霧散させていく。全身に鏤められたシンクレアの鱗を彷彿とさせる黒鉄色の装甲はその儘に、しかし全体的な印象は何処にでもいる至って普通の若い男性へと落ち着いていく。
果たして今の彼を見て彼が人間では無いと気付ける人間がどれだけいるだろうか? 龍魔力を知覚出来無い事実を無視しても、恐らく不可能だろう。アルピナやクィクィは彼を赤子の頃から見知っている為に、仮令魔眼を開かずとも絶対に見間違えない自信しかない。しかし、人間ならそうなるであろう事は容易に想像出来た。
続けて、ヴェネーノの手に握られていた龍剣や身体に鏤められた装甲もまた琥珀色の粒子へと霧散し、その儘ヴェネーノの体内へと吸収される。それらは、魂をヴェネーノの魂に結び付けた後のシンクレアの肉体が変質したもの。取り分け龍剣に関しては肉体の核を宿している程には重要な部品であり、これを無くしてしまっては無事に龍装を解除する事は出来無いのだ。
そして、漸くと言った具合にヴェネーノはシンクレアの肉体を自身の肉体から剥がし、魂もまた静かに分離させてゆく。一欠片たりとも分離残しが無い様に逐一確認しつつ、しかしそれでも決して遅いとは言えない速度でその分離は進められていく。
何とも懐かしい光景。神龍大戦時には戦場の至る所で飽きる程見させられた光景。それは最早飽きの感情を通り越して実家の様な安心感すら抱かせてくれる。地界で暮らしていく中でも味わう事が出来る、数少ない神の子らしい光景だったのだ。
軈て、ヴェネーノから分離した肉体と魂の粒子は、琥珀色の球体を形成しつつ上空へと静かに浮かび上がる。それは宛ら、夕暮れ時の日輪の様。決して温かみがあるとはいえず、しかしある意味本質的に冷酷さを強く持つ上位存在ならではの性質が如実に反映されている結果なのかも知れない。
今尚地上に零れる小さな粒子達が次々とその光球へと吸い込まれる事で、それは、着実に大きさを増してゆく。人間の肉体を遥かに超え、大型動物をも上回り、それこそこの地上に自然物として存在してはならない程の大きさへと変質してゆく。
光球から龍脈が零れ出る。厳つい威圧感となって吹き荒ぶその覇気は、しかしアルピナやクィクィやヴェネーノからしてみれば非常に懐かしいもの。嘗て何度も何度も観測してきた力であり、自然と笑みが零れてしまう
その後、全ての粒子が集まり切った光球は、真球状態から少しずつその姿形を変質させていく。一見してゆっくりな様に見えるのは、単純に距離が遠い事とその直径が大き過ぎるだけ。近くで見ればそれ相応に速く見えるだろう。
それは扨置き、そうして徐々に変形していく光球は、少しずつだがその正体をしっかりと鑑別出来る程度に迄変化を遂げていった。太い四本の四肢に支えられた蜥蜴の様な躯体。背中からは猛禽類の様な獰猛で勇々しい翼が一対伸びる。そんな全身は、魚如きでは比肩出来無い様な巨大で分厚い金属質の鱗で覆われている。黒鉄色に鈍く輝くそれは、真昼の中に突如とした局所的な宵闇が出現したかの様だった。
そして何より、その額からは荘厳な琥珀色に輝く一本の角が鋭利に伸びている。存在感を主張するそれは、正しくその正体が龍である事の証左。天使及び悪魔と肩を並べる、この世の中を管理する神の子の一角を占める上位存在だった。
次回、第351話は9/13公開予定です。




