第348話:アルピナとクィクィとヴェネーノ
兎も角、そうしてバルエル達天使及び彼彼女らに引き連れられた聖獣達が完全に周辺地域一帯から姿を消した事を確認したアルピナは、漸く肩の力を抜くのだった。やれやれ、とばかりに彼女は大きく息を零し、溢れ零れる魔力を再度自身の魂の深奥へと帰還させるのだった。
猫の様に大きくやや吊り上がった彼女の蒼玉色の瞳が、陽光を受けて宛ら宝石の様に輝く。一見して可憐で明朗な10代後半の小柄な少女の様に見えるその風貌は、周囲一帯の壊滅的な風景と倒錯した平和を感じさせてくれる。
しかし、実質的にこの環境を作り出した元凶とも言える彼女からしてみれば、こんな光景は大した事無い。また、彼女の傲慢で冷酷な性格を知っていれば、この方が寧ろ却って似合っていそうな雰囲気すら感じさせる。
「漸く終わったか。まったく、面倒な事この上無いな」
「良かったの、あの儘帰しても? なんだか、アルピナお姉ちゃんらしくないね」
精神的疲労をその儘貼付した様な相好を浮かべるアルピナに対して、その直ぐ横に立ち並ぶクィクィは意外そうに尋ねる。ヒトの子が創造される遥か以前より勝手知ったる間柄なだけあって、互いの本質は良く知っているのだ。だからこそ、そうした疑問は湧出され易かった。
「只の気紛れに過ぎない。しかし偶には良いだろう。ワタシの目的は龍魂の欠片を集める事。そして我々全体の目的は天羽の楔に囚われた悪魔を解放する事。それを果たす為なら、多少の意外は目も瞑れる」
さて、とアルピナは直ぐ側に倒れるヴェネーノの許へクィクィと共に徐に歩み寄る。そんな彼は、今尚シンクレアとの龍装を維持した儘大人しくしている様子。如何やら死の危険性からは脱した様だが、しかし決して余裕があるとは言えなかった。
彼は、歩み寄るアルピナとクィクィを静かに見上げる。何方も、人間社会に紛れ込んでいれば隔絶の美少女として周囲の欲情を恣にしていただろう程に姿形は整っている。一方は蒼玉色の差し色が入った濡羽色の髪を肩程に伸ばし、もう一方はザンバラなショートカットにも見える緋黄色の髪をアンダーポニーテールにして纏めている。それらは揃って海原から齎される潮騒の風に乗り、柔らな香りを醸し出しつつ静かに靡いていた。
そして、それら御髪と同じく、彼女らが身に纏う衣服もまた同じ様に裾を揺らしている。一方は季節外れの漆黒色のロングコートと同色のプリーツスカートを身に纏い、もう一方は同じく漆黒色のフードパーカーとショートパンツを纏っている。何方も共通して裾からは雪色の肌が露出し、外見年齢相応の明朗快活さと純粋無垢な印象を艶やかしく零している。
また、其々《それぞれ》蒼玉色と緋黄色の瞳を可憐に輝かせており、ヴェネーノはその視線に釘付けにされる。或いは、磔にされていると表現した方が良いのかも知れない。何方にせよ、彼では到底無視出来兼ねる眼光だという事は事実だった。
「随分と遅くなってしまったが、久し振りだな、ヴェネーノ」
コートのポケットに両手を入れた儘、アルピナは上位階級としての威厳を最大限行使する様にヴェネーノへと語り掛ける。冷酷な声色と男性的な口調によって紡がれるそれは、しかしヴェネーノにとっては非常に安心するもの。真に安全が到来した事を確信させてくれる福音の如き重みを感じられた。
「そうだね、最後に会ったのは10,000年くらい前だったかな? 久し振りだね、アルピナ」
それにしても、とヴェネーノは更に言葉を続ける。栗色の瞳で一心にアルピナの瞳を見据え、しかしそこには一切の不快感を抱かせなかった。信用と信頼に基づく、安堵と友情によって紡がれる懐かしい紐帯だった。
「君にしては意外と時間が掛かったんじゃない?」
「ほぅ、智天使如きに破れ天羽の楔による支配を受けていた君が、随分と偉くなったものだな」
やや吊り上がった眉を更にピクリと吊り上げて、アルピナはヴェネーノの言葉に反応する。その顔色こそ決して怒りの感情は見られなかったが、しかしその内奥からは誰の目からも明らかな怒りの色が滲出されていた。
勿論、それは単なる冗談としての反応であり、決して本心からそう思っている訳では無かった。抑としてヴェネーノの言葉だって本心から言ったものでは無い事は分かり切っていたし、何より毎度の如く感情を露わにして怒っていたらキリが無いのだ。適当な所で見切りを付けて、適当に威圧して黙らせる方がよっぽど楽だった。
また、ヴェネーノとしてもそれは同様だった。幾ら悪魔種全体で見ればかなり若い部類に数えられるとは言っても、それなりに長い付き合いなのだ。それに、数少ない死亡経験が無い悪魔でもある為、それはより顕著である。
だが、格差の違いを前にすればそんな個人的事情は大して意味を成さない。確かにそれが冗談だと頭では分かっているが、しかし心がそれを認めてくれなかった。冗談だと分かっていても、咄嗟の恐怖が思考に砂嵐を生じさせていた。
そんな中、如何にか弁明しようとするヴェネーノよりも先に口を開いたのは、アルピナの横で彼女と肩を並べていたクィクィだった。アルピナよりも更に小柄で人間換算10代前半にしか見えない稚さを前面に押し出す彼女は、しかしやや不満げな顔色と口調を零すのだった。
「ねぇ、その言い方だとボクとスクーデリアの事もバカにしているよね? まぁ、事実だから否定は出来無いんだけどさぁ……」
事実だからこそ余り大きく怒れないものの、しかしクィクィはムッとした相好でアルピナを横目で睨む。地位階級的にはアルピナの方が上だが、しかし普段の生活に於いてアルピナはクィクィに対して頭が上がらない。そんな歪な関係が生む現実は、非常に倒錯的な気味悪さをその光景に滲ませていた。
一見して一触触発にしか見えない光景。公爵級悪魔と侯爵級悪魔による不可視の衝突。悪魔種全体処か神の子全体で見ても上から数えた方が早い程の強者達によるその火花散らせる見つめ合いは、直ぐ傍のヴェネーノを萎縮させる。
それは、これ迄にも幾度と無く見てきた光景。その為、日常の一コマとしてこれ迄なら何という事無く遣り過ごす事は出来ていただろう。しかし不思議と、今回ばかりは出来無かった。理由は不明だが、明白な恐怖が魂を支配していた。
「さぁ、如何だろうか。尤も、ワタシとしては君達を悪く言う積もりは一欠片たりとも存在しないがな」
兎も角、とアルピナは話を強引に切り上げて、改めてクィクィからヴェネーノへと視線を動かす。これ以上話しても、最終的にはアルピナがクィクィに舌戦で勝てる見込みは存在しないのだ。その為、未だ優位性が取れている内に逃げるのがアルピナとしては何よりもの得策。一度不利になってしまえばアルピナではクィクィに逆らう事は出来無いのだから。
「先ずはヴェネーノ、君の治療を済ませよう。何時迄もそこに寝転がっている訳にはいかないだろう?」
「そうだね。もっと早くして欲しかったけど、そんな贅沢は言わないよ」
余り文句ばかり言っていたら、また話がややこしくなる事が目に見えている。その為、ある程度の誤魔化しを挟む事でヴェネーノは素直にアルピナの提案に従う。抑、アルピナは悪魔種全体の指揮官なのだ。指示に対して素直に恭順する事に躊躇いは無かった。
そして、ヴェネーノの小言を無視しつつ、アルピナは改めて魔力を魂から放出させる。蒼玉色の瞳を金色の魔眼に染め替え、静かにヴェネーノの魂を観察する。どの程度の消耗が残り、どの程度の回復を要しているのか、それらを事細かに分析していくのだった。
次回、第349話は9/11公開予定です。




