第345話:血の回廊と想い人
如何にかして言葉を発するヴェネーノ。しかし、その言葉は余りにも弱々しく、アルピナの耳には届かなかった様だ。或いは、届いていて尚無視しているのかも知れない。しかし、今のヴェネーノにはそんな事を判断出来るだけの体力も気力も残っていなかった。
「我儘だな、君は。これではうっかり気が変わって助けられなくなるやも知れない」
ワザとらしさを前面に押し出しつつ、アルピナは恍けた様に呟く。或いは、嘲笑と不満を足した様な態度振る舞いと表現した方が良いかも知れない。普段の彼女らしさとは掛け離れた、余り見せない珍しい言動だった。
「ごめん」
だからこそ、バルエルは静かに謝罪の言葉を口にする。幾らそれが本心から言った訳では無い遊び半分なものだと分かっていても、しかしだからと言ってその通りに受け取る訳にはいかなかった。というのも、今は遊びでも気分次第では本気にされ兼ねないのだ。だからこそ、状況を無視した本心からの謝罪を口にするのだった。
「冗談だ。契約は既に締結されている。それを反故にする様なマネを私がする筈が無いだろう? やりたくは無いが、これでも一応は悪魔公だ。立場と責任を放棄する様な事はしない」
さて、とアルピナは自身の魂に意識を集中させる。自身の魂から際限無く湧出される黄昏色の魔力を巧みに操り、それを完璧に制御する。こんな小柄で可憐な姿形の何処にこれだけの力が内包されているんだ、と疑いたくなってしまう様な覇気を静かに収め、軈てその全てを魂の内部に収納する。
その姿は、何処から如何見ても普通の少女。艶やかな濡羽色の髪を肩の長さに伸ばし、雪色の大腿を覗かせる漆黒色のミニスカートとそれらを纏めて包み込む季節外れなロングコートを肩に羽織り風に流している。また、猫の様に大きなやや吊り上がった蒼玉色の瞳はその快活さを存分に高め、結果的に彼女を目にした凡ゆる青少年が無意識的に魅了される様な快活さを抱いていた。
しかし、それは刹那程の時間で鳴りを潜める。果たして一瞬だけ感じられたあの魅力は見間違いだったのだろうか、と感じてしまう程に、再度強烈な覇気が零出する。正しく、彼女を神の子足らしめるに十分過ぎる程の純粋で濃密な迫力だった。
だが、これ迄彼女が見せていたそれとは明確に異なる要素がそこには存在していた。これ迄彼女の魂から湧出していたのは彼女の本質である悪魔としての力。この世の転生を司る上位存在として相応しい黄昏色の輝きを抱く力が、それを形成していた。
しかし、今は異なる。外見こそ何ら変化を催してはいないが、しかし内面的な印象がまるで異なる。より詳細に語るなら、これ迄彼女が抱いていた黄昏色の悪魔的根源では無く、暁闇色の輝きで構成される天使的な根源が反転して湧出していた。
つまり彼女は現在、彼女の本質である悪魔としての力では無く本来持たない筈の天使としての力を身に纏っていた。眼前で倒れるバルエルの治療の為に、それと相反さない同一規格の力である天使の力を大きく表立させていた。
「……天使の力……あ~成る程ね、血の回廊ってやつなのかな? 確かに、それだったら持ってても可笑しくは無いか」
「そうか、君に見せるのは初めてだったな。しかし、理解が早いのは助かる。説明するのも面倒だからな」
バルエルは驚きと困惑を表現する様に瞠目しつつ、アルピナの全身を舐める様に見渡す。しかし、対してアルピナは、暁闇色の輝きを抱く聖力で構築される聖法陣をバルエルの胸元に投影しつつ、何て事無い様に答える。
「それで、君の想い人はこの事について知っているの?」
「想い人?」
誰の事だ?、とアルピナは首を傾げる。コイツは一体何を言っているんだ、とでも言いたげな困惑と疑問の相好を顔面に貼付し、これ迄に無い無防備な姿を曝け出す。全く以て心当たりは無く、或いは無意識的に思考から除外していたのかも知れない。果たして何方なのかは彼女自身気付けないが、恐らく両方が良い具合に作用しているのだろう。
だからこそ、バルエルはそんな態度振る舞いを見せるアルピナに対して困惑する。将又茫然としてしまっているのかも知れない。え~、と言葉に成らない声を漏らし、溜息混じりに小ばかにした様な笑い声を漏らしてしまった。
しかし、そんな彼の態度振る舞いだったり思考の揺らぎを読み取ったりした結果、アルピナは漸く彼が言いたい事に気が付いた。思考を読み取ればもっとスムーズに気付けたのかも知れないが、しかし結果として気付けたのならそれで良いのだろう。
「……あぁ、成る程。何が言いたいのかと思えば、クオンの事か? ……さて、彼は気付いているのだろうか? 生憎ワタシも把握していないからな。しかし、レインザードでの一件と今回、その両方を魔眼越しであれ観測出来ている以上、ある程度は気付いているだろう。……しかし、想い人か。如何やら、契約を帳消しにしてレムリエル諸共神界送りにされたい様だな、君は」
「いやいや、ちょっとした冗談だよ。でも、こんな事言われるのだって今に始まった事じゃないでしょ? 特にクィクィちゃんからは良く揶揄われてたみたいだしさ」
ニヤニヤ、と気味の悪い笑みを零しつつ、バルエルはアルピナを挑発する。階級や種族の垣根を超えた至って対等な関係性を土台にして組み立てられる平和的な会話は、最早彼彼女にとっても懐かしい。それ故、声色や口調にこそ険悪な色が滲出されているが、しかし本心としては非常に楽しさを見出している様だった。
うるさいな、とアルピナは頬を赤らめて否定する。恥ずかしさを誤魔化す様に殺気を零し、本来天使が持つ筈の力に彼女本来の悪魔的な力を重ね合わせる。暁闇色と黄昏色が綯交された独特な力を錬成し、それは消耗し切ったバルエルとヴェネーノの魂を一層傷付けようとする。
「まぁいい、兎も角今は治療が先決だろう? ジッとしていろ、これ以上、ワタシの気分を損ねたくなければな」
蒼玉色に染まる彼女本来の瞳に本来彼女が持たない筈の聖力を流し込む事で、彼女はその瞳を金色の聖眼に染め上げる。そして、魂から湧出される聖力を手掌に集約すると、彼の胸に描いた聖法陣を介して彼の魂へ注ぎ込む。
そうして注ぎ込まれる聖力は、バルエルの心身及び魂を立ち処に癒していく。本来存在しない筈の聖力であるにも関わらずその効果は絶大。それこそ、彼女が就任している悪魔公と同格に当たる天使長の聖力だと言われても疑い様が無い程に強力だった。
或いは、寸分違わぬ同一の力と形容した方が良いかも知れない。いや、正しくはそう表現しなければならない筈なのだ。というのも、天使長セツナエルが魔力を使える理由も悪魔公アルピナが聖力を使える理由も、突き詰めれば一つに集約される。つまり、表裏一体の関係にあるのだ。
しかし、その真実は実際の所殆ど公表されていない。バルエルだって一見して納得して弄っている様に見えるが、しかし実際の所確信を抱いている訳では無い。状況と知識から確信めいた予測を立てているだけに過ぎないのだ。
真実を知るのは極一部の神の子に限られる。それこそ、神と一部の天使と全悪魔と一部の龍だけがそれを知っている。しかし、知られた所で不都合がある訳では無いし、裏事情を知っていれば何れは思い至る真相でしかない為、誰もそれを大きく話題にしていないだけなのだ。
兎も角、そんな裏事情を余所にアルピナはバルエルへ聖力を注ぎ込んでいく。敵対する間柄とはいえ本来は立場や仕事を分かち合う仲間。くだらない蟠りを排して額を突き合わせれば、そこに気不味い心情は存在しなかった。
次回、第346話は9/8公開予定です。




