第34話:反撃の狼煙
心臓が激しく鼓動を鳴らしながら血液と魔力を循環させ、彼の体内温度は急激に上昇する。激しい金属音と蹴り上げられる土が空気に溶け込み、殺気と殺気の衝突が衝撃波となって木々を揺さぶる。
「グッ……流石に厳しいな……」
体力の残滓を寄せ集めて生み出した僅かな気力を振り絞ってクオンは無数の天使を相手にする。遠くではアルピナがこちらを見ているような気がしているが、それでも割り込んで来ない辺りまだ大丈夫と判断しているのだろう。それはつまり、自分にはまだ可能性があることの証左でもある。クオンはそれに発破をかけられて奮戦する。
「ふぅん、まだやるなんて流石だね」
「天使から直々に褒められる日が来るとはな。数日前までだったら喜んでいただろうが、今は全然嬉しくないな」
交戦しつつ移動を続けるクオンは、やがてアルピナのすぐ近くまで戻ってくる。そして、自然な流れに身を任せてクオンとアルピナは背中合わせになって天使と対峙する。
「なかなか苦戦しているようだな、クオン」
「生身の人間でこれだけやってるんだ。上出来だろ?」
「ああ。しかし、今が勝負時だ。聖力や魔力を認識できるようになり視界が開けているだろう。それをものにできるか、或いは見過ごして後悔に苛まれることになるのか。君はどちらを選ぶ?」
悪魔の口から放たれる二者択一の選択。以前なら恐怖と不安の色を隠せなかっただろう。しかし、今のクオンの耳にそれは恐怖ではなく安堵として届く。彼女から与えられた選択肢。選ぶ道は一つしかなかった。
「聞くまでもないだろ。やってやるさ、出来る限りのことはな」
クオンの覚悟に、アルピナは無言の微笑で返す。言葉に現れない彼女の心情は、クオンには理解できないながらも決して悪い気はしない。寧ろ、積極的信頼の表れだろうと捉えることすらできた。
どれだけ魂が変遷しようとも決して変わらないもの、か。なかなかどうして面白いな。そうだろう、ジルニア?
過去の朋友に思いを馳せるアルピナは、碧眼を遠く輝かせて猫のように愛くるしい相好を浮かべる。相対する天使達は決死の覚悟を瞳に込めて聖剣を握る。
「さあクオン、反撃の狼煙を上げようか」
天使達が一斉に飛び掛かる。翼を羽ばたかせて高低様々な咆哮が木々の合間を縫う。聖力が迸り、周囲に溶け込む毒霧や毒沼と一体化する。敵も味方も、総じて瞳には熱意と覚悟の焔が揺れ魂が激しく熱を産生する。
「我が君の為にも、お前達をここで始末するッ‼」
「我が君だと? 誰だ、それはッ⁉」
ペリエルの覚悟にクオンは問い返す。件の深淵に到達する僅かな手掛かりも逃すまいとする決死の形相で彼女を睥睨する。手に握りしめる遺剣に無意識の力がこもる。
「知っても無駄な事。お前は、今この場で片づける」
犬歯を剥き出しにして凄む彼女の殺気は、クオンがこれまで感じたどの天使よりも荒々しい。アルピナとはまた異なるベクトルのそれは、クオンの魂を緊張感の渦で拘束する。
それに便乗するように、レスティエルもまた聖力を溢出させる。掌に集約されたそれは聖法の奇蹟を具現化させる。アルピナが使用する魔法と対極に当たる属性を持つそれは、天使が身に宿す神の御業。ヒトの子が生涯を賭して探求しても決して掴むことができない聖の深淵。
嵐のように吹き荒ぶそれは、クオンの髪を激しく靡かせる。全身の立毛筋が収縮し、無意識の恐怖が警報を発令する。
茜色の染まるそれは宵闇のように深く、燦然と輝く日輪のように熱を帯びる。
「これは……凄まじいな……」
クオンは無意識に後退する。その場に留まろうとすればするほど、身体は無意識に天使から遠ざかる。
アルピナは、そんなクオンを横目で一瞥しつつ微笑を浮かべる。契約を結びともに旅をする相棒の成長と終焉のシーソーゲームを好奇心旺盛な童のような純粋無垢な瞳で見る。
「クオン」
アルピナは徐に彼の名を呼ぶ。それはとりわけ感情が込められているわけではない、至って普通の声。普段の彼女となんら変わらない傲岸不遜な態度。しかし、彼にはそれが何よりもの励みとなる。不可視の手が背中をソッと支持してくれているような安心感が湧出する。
クオンはレスティエル達を注視しつつ、言葉だけを彼女に返す。その声に、恐怖の色はみられなかった。
「わかってるさ。今の俺にできることをやる。それだけだろ?」
小さく息を吐いたクオンは琥珀色の瞳を鋭利にする。瞬き一つせず、眼前の恐怖と相対する。
流石だ。やはり、君は素晴らしい。
アルピナは満足げな顔でフサキエルとエスキエルを遇う。靡く髪が頬を撫で、雪色の肌が木漏れ日に当たり淡く輝いた。
さあ、クオン。君の実力を見せつけてみろ!
レスティエルは地面を強く蹴りつけてクオンに跳び掛かる。嵐のように荒れ狂う殺気が全身を覆い、僅かばかりの隙も見当たらない。
〈太刀聖風刃〉
音より早く飛ぶ斬撃は、光のように眩く輝きながらクオンを襲撃する。暴流する力の波が、その場にある一切合切を吹き飛ばす。巨木が柳のように撓み、草花が枯葉のように舞う。髪と服が音を立てて靡き、痛いほど強く体に打ち付ける。
世界が閃光に染まる。聖剣と遺剣の衝突が神龍大戦の再来を告げるかのような威力を周囲に撒き散らす。
遺剣の力か、或いはクオンの力か。僅か数日でここまでモノにするとはな。
光が晴れ上がる。聖力に吹き飛ばされた木々達が、弾性力で再び彼らの頭上に天蓋を形成する。木漏れ日が舞い上がった土で乱反射され、薄汚れた宝石のような鈍い輝きを展開する。
やがて、全ての不純物が晴れ上がり二者はその姿をさらす。
クオンは、レスティエルが放った聖法をどうにか受け止めていた。全身で大きく呼吸し、体中から噴き出す血液が痛々しく地面を染める。握り締めた遺剣だけはその輝きを失うことなく残り、一切刃こぼれがない剣身を主張している。
「ハァ……ハァ……。なんとかなった……のか?」
薄ら開く瞳でクオンはレスティエルを見る。驚愕と呆然と恐怖に支配された眼前の敵を睥睨する。
「……何とかなるもんだな。……まったく、アルピナの強さの底が知れないな」
フサキエルとエスキエルを纏めて蹴り飛ばすアルピナを、クオンは横目で畏怖する。余裕で一杯の相好は頼りがいがあると同時に底が知れない恐ろしさを抱き合わせる。決して優れているとは言えない体躯のどこにそれだけの力が宿っているのだろうか。神の子という、人を管理する側の立場が持つ真の恐ろしさの片鱗を見た気がしたクオンは何も言えなかった。
「ほう、無事に受け止めたか。……フッ。どうした、レスティエル? 顔色が優れないな」
無数に襲い掛かる天使達を、その姿を見ることなく手に宿す魔爪で一蹴しつつアルピナは挑発する。金色の魔眼が猫のような我儘さで輝き、可憐な少女のように冷徹な微笑を見せる。
「バカな……ただのヒトの子が……」
「聖眼に映る世界を世の理の全てだと信じて疑わなかった君の負けだ。クオン、そちらは君に一任しよう」
ああ、とクオンは顔を引き締める。油断も慢心もなく、疲労感を身体の奥底に押し込めて立ち上がる。消耗した魔力を可能な限り寄せ集めて遺剣に流し込む。
「いくぞ、レスティエル!」
果敢な声を振り上げてクオンはレスティエルと対峙する。しかし、それでもクオンの不利には変わりなかった。相手がレスティエル一人なら兎も角、天使はその他にも大勢存在している。それら全てが聖法を行使可能であり、レスティエル自身もまた聖力的にはまだまだ余裕があった。
故に、クオンは決して勝った気ではいられなかった。
……どうする? 躱せばどうにかなるが、これだけの数を相手にしながら全て躱せるか?
消えかけた心の炎を高ぶらせて戦うレスティエルと、いまだ光を失っていないペリエル。その他にも無数の天使が無数の聖剣をクオンに向けた。




