第325話:迫り来る脅威と瓦礫の中
しかし、彼としてはそれが真っ当なものだと信じて疑わなかった。契約を結んで尚人間的価値観から抜け出せず神の子的視座の何たるかを知らない彼の常識の枠組みでは、それを飲み込むには余裕が無さ過ぎた。クオンの様に神の子との直接的戦闘に巻き込まれた事が無い弊害だと言えば仕方無いが、それを考慮しても、彼には余りにも経験が不足していた。
また、そんな彼彼女らの事情を知ってか知らずか、レムレイルは一柱静かに可憐に微笑む。金色に輝く聖眼を凝らして瓦礫の奥に埋もれるセナとルルシエを凝視し、その動向を余す事無く把握する。最早一切の脅威足りえない相手だとは雖も、しかしかといって慢心する訳にはいかない事もまた事実。果てしなく長い時を神龍大戦という形で対立し続けてきた名残として、悪魔という種を低く見積もる事だけは如何しても出来無かったのだ。
それに、レムリエルはセナと異なり穏健派。その都合上、戦いという場面に於いて必ずしも相性や階級通りに事を運ばせられると胸を張れる様な高い自己評価は持ち合わせていなかったのだ。憖、アルピナやセツナエルといった理不尽を深く知っているからこそ、その態度は一入だった。
ふぅ、と小さく息を吐いて全身を巡る余分な緊張感を払い落とした彼女は、再度足を動かしてセナの許へ近付いていく。直ぐ近くではアルバートが恐怖と覚悟が半々に折り重なった魔眼と剣で彼女を睥睨しているが、しかし彼女はそれに気を止める事は無かった。幾らスクーデリアとの契約で彼女の力の一端を授かっているとはいえ、しかし取るに足らない存在である事には変わらなかったのだ。
「あれ? 次は君が相手になってくれるのかな?」
御淑やかな少女の様な純粋無垢な瞳を携えた静かな笑みで、レムリエルはアルバートを見つめる。その立ち振る舞いは非常に平和的であり、これが平穏な街中だったら敵対している者同士だとは誰一人として気付かなかっただろう。
しかし、そんな人畜無害な笑みにも関わらず、アルバートは何も出来無かった。反論する事も出来無ければ反撃する事も出来無い。指一本真面に動かす事も出来ず、只無言で視線を交わらせる事しか出来無かった。
同時に、魂からは抑え切れない恐怖の震えが湧出し、全身を隈無く満たす様に波及する。それは初めてアルピナやスクーデリアと会った時を思い出す程であり、改めて彼女が非人間的立場の存在だという現実を突き付けられる。こんな優しく穏健な印象から零れ出る覇気とは到底思えなかった。
それでも、如何にかして何らかの対応策を捻り出そうと、アルバートは躍起になる。魂に縫い付けられたスクーデリアの魔力を増強させ、眼前の座天使に如何にか食らい付いてやろうと魂を滾らせる。幸いにしてガリアノットら人間達は聖弾の余波で吹き飛ばされた影響か視界に映る範囲にはいない。だからこそ、魔力を惜しむ必要は無かった。
しかし、それでも尚何も出来無かった。只徒に魔力を垂れ流しにしているだけで状況は一切変わらず、只無情に時間と風だけが流れていく。それを受けて、改めて彼は自分の人間としての貧弱さや脆弱性を思い知らされる事となってしまった。
そして、そんな彼の心情を嘲笑する様に、レムリエルは優しく微笑み掛ける。それは、傍から見れば非常に天使らしい神聖で優雅なものだったが、しかし敵対している状況に於いてそれは完全な嫌味でしかない。下位存在でしかないヒトの子を文字通り嘲るその笑みをその場に残し、上位存在としての余裕と優雅さを前面に押し出す様に、彼女は改めてセナとルルシエの許へ足を動かす。
一方、そんな彼女の動向を魔眼で把握していたセナとルルシエは、魂の深奥から湧出する焦燥感を隠す事無く冷汗を流す。圧倒的格上であるレムリエルを前にして、神龍大戦時を彷彿とさせる懐かしい恐怖が呼び起こされ、しかし当時と同様に何も出来無い自分に対する苛立ちもまたそこへ綯交される。
しかし、真面に動く事すら儘成らない現状では、それは単なる感想でしか無かった。仮令どれだけ思おうとも身体がそれに追い付いていなければ状況は変わらず、しかし状況を変えられるだけの身体が存在しない。その都合上、その思いは只の我儘な無い物強請りでしか無かった。
それでも、一縷の望みを掛けてセナとルルシエは思考を加速させる。幸いにして、思考速度は人間の比では無いくらいには速いし、セナのそれに至ってもルルシエから魔力を譲渡された事によって通常程度に迄は回復していた。
しかし、どれだけ考えても状況を打破出来る劇的な一手には思い至らなかった。確かに神の子は年齢に比例する実力以外にも努力や経験によって成長する実力が存在するが、しかしそれも限度というものが存在する。余りにも掛け離れ過ぎた年齢の差を覆せる様な実力は、そう簡単には得られないのだ。
そんな事が出来るのは、精々がクィクィ程度であろう。彼女は、現悪魔公アルピナと皇龍ジルニアの小競り合いを仲裁し続けた上に、それに悪乗りして囃し立てる前悪魔公や現天使長ともスクーデリアと協力してそれなりに戦ってきたのだ。
そんな余りにも隔絶された最上位の力を受け続けた彼女は、年齢的実力こそレムリエルより下であり且つ死亡経験が無いと仮定したイルシアエルやテルナエルと同程度。しかし、経験や努力による成長分を加味すれば智天使級天使にも引けを取らないレベルに迄底上げされているのだ。
その為、彼女の様に最上位格との戦闘経験が存在せず、神龍大戦やそれ以前の平和な時代に於けるちょっとしたお遊び及び賭け事乃至勝負で同格程度としか戦わなかったセナや、抑として大戦を知らないルルシエでは、レムリエルとの圧倒的な格差を覆す事は出来無かった。
だからこそ、それを現実として受け止めるしか出来無い彼彼女は、己の不甲斐無さを呪うのだった。抑として天使と悪魔が対立し抗争している事自体が本質的に可笑しい事ではあるのだが、しかしそんな事を今更気に留める事は無かった。
そして、着々と近付いてくるレムリエルの魂を瓦礫越しに魔眼で捉えつつ、しかし依然として動く事すら出来無いセナや彼の治療に掛かりっきりなルルシエは、重い心情を胸に宿す。アルピナ達に精神感応で呼び掛けるという初歩的な解決策すら思い浮かばず、余りにも不足し過ぎている余裕を切望する様に息を吐き零す。
そんな時、ガラガラ、と音を立てて瓦礫が崩れ落ちる。それは依然として表層レベルでの話の様だが、如何やら今セナ達が埋まっている瓦礫の山から齎されているもので間違い無い様だった。瓦礫の隙間を反響して届くその音を耳にして、セナとルルシエは揃って息を飲む。
余りにも狭窄した視野は、そんな初歩的な事すら捉えられていなかった。遠くから悠々と歩み寄ってくるレムリエルの魂だけに気を取られるが余り、直ぐ間近に近付いているもう一つの魂に気付く事すら出来無かったのだ。
「この魂は……」
魔眼を向ける方向を変えつつ、セナは静かに呟く。ルルシエもまた声にこそ出さないものの同じ様に魔眼を凝らし、その魂を見つめる。この距離に近付かれる迄気付かなかった自分達の不甲斐無さは非常に腹立たしいが、今更そんな事を気にしていられる様な状況でも無い為、そんな思考は直ぐ様虚空へと捨て去られるのだった。
同時に、二柱はその魂の正体に否応無く気付かされる。これ迄何度も見た事がある魂の色。何度も感じた事がある魂の波長。決して間違え様が無く、決して同一のものが存在しない、唯一無二の存在だった。
次回、第326話は8/19公開予定です。




