第321話:クィクィの怒り②
「悪いがヴェネーノ、ワタシから君に差し出せる救いの手は存在しない。自分で蒔いた種だ。自分で回収する事だな」
そんなぁ、とでも言いたげに、ヴェネーノはアルピナの言葉に絶望する。辛うじて見えていた蜘蛛の糸が容赦無く切り落とされたかの様な感覚だった。絶対的な安寧の申し子とでも言うべき存在として君臨するアルピナやスクーデリアから見捨てられるという事は、それに近しいだけの悲壮的現実感を齎すのだ。
「まぁ良いや、先ずは君の目の前にいるその天使を片付けてよ。罰を与えるのはその後にしてあげるからさ」
そして、そんな彼に止めを刺すかの様に、クィクィが言葉を掛ける。或いは、その絶望感に対する緩和剤かも知れない。ヴェネーノが如何いう受け取り方をするのかはクィクィとて定かでは無かったが、しかし少なくともクィクィとしてはこの場を和ませる為の発言だった。
また同時に、その言葉はそれを聞いていたバルエルの心を刺激するものだった。宛ら彼を不要物乃至邪魔物の様に遇うその言葉は、神の子全体で見ても比較的大人しい性格をしている彼と雖も決して見過ごす事の出来る範疇を疾うに逸脱していた。
だからこそ、そんな彼女の言葉に対してバルエルは分かり易くムッとする。それでも、感情を揺さ振って激しく激高していない辺り、彼なりの感情コントロールが出来ているのか、或いは単純に怒り慣れていないのだろう。少なくとも、彼の内情を知っている者からすれば、これでも怒っている方なのは確実視出来た。
「辛辣だね、クィクィちゃん。僕だって相応の使命があってやってるだけなのに。それに、幾ら龍装悪魔が相手だとは言っても、所詮は10,000,000年級でしょ? それで僕に勝つのは無理じゃないかなぁ」
「五月蠅いなぁ。使命が何? 所詮天使って上位階級の指示に従うだけで自由意志の存在しない傀儡人形でしかないじゃん。そんなんだからボク、天使の事って大っ嫌いなんだよね。それはキミだって知ってるでしょ? そんなのが偉そうに生死に対して口出ししないでくれるかな?」
嘗て無い怒りと不満を垂れ流しにする声色と口調で罵りつつ、クィクィは空中に浮かび上がる。そしてその儘アルピナ達の傍まで移動すると、彼女らと肩を並べる様にして天使達に視線を向ける。アルピナに負けるとも劣らない惨酷な眼差しは、彼女と同様に並み居る天使達を萎縮させる。
そんなクィクィに対し、アルピナとスクーデリアは懐かしさを孕む微笑みを携えて迎え入れ、クオンは茫然と見つめる事しか出来ない。或いは、露わになった彼女の本性を前にして愕然としてしまっているのかも知れない。
何れにせよ、クオンは言葉を失っていた。確かに彼女は味方でありアルピナやスクーデリアが如何にかして助けようとしていた同胞なのは事実。それに、自分の事も凄い大切にしてくれているのも実感している。それでも、彼女の本性を前に素直にそれを受け入れる事が出来無かったのだ。
尚、それなら少年基記憶を失っている状態のヴェネーノと出会った際に彼を手に掛けようとしていた男を殺害していた光景は如何なのか、という話になる。確かにあれは純粋な殺人行為であり、普通に生活している分には決して出会う事の無い光景である。
しかし、あの時は特に何も感じなかったのだ。まるでそれが当然であるかの様に、あの時はその光景を素直に受け流していたのだ。身と心が悪魔に成った覚えは無いが、しかし心做しか価値観が神の子寄りに成っていたのだろうか。
しかし、それなら今回の感情には如何説明を付ければ良いのだろうか? 若し価値観が悪魔に引っ張られているのであれば、尚の事クィクィの態度振る舞いに恐れ戦く事は有り得ない。それが悪魔の本性であり、それが当然として受け入れられる筈なのだ。
それにも関わらず、今回感じ取った恐怖はまるで心の底から震え上がる様な恐怖だった。それこそ、本能的と言うか潜在的と言うか根源的と言うか、そんな感じの恐怖だった。まるで心では無く魂が恐怖していると言った方が近い様な、そんな感覚だった。
果たしてこれが何を意味しているのかクオンには分からず、だからこそ余計にその恐怖を強く感じてしまう。クィクィの事を只の仲間では無く決して逆らえない存在、即ちアルピナで言うスクーデリアやクィクィの様な立場の存在として昇華してしまっていた。
しかし、そんな彼の態度に対して、アルピナもスクーデリアもクィクィも何ら気にする素振りを見せなかった。それが当然だというのか、或いは気にする迄も無い些細な事だというのか、将又その両方を兼ねているのか。何れにせよ、この状況下で態々《わざわざ》大々的に取り上げる必要性は存在していなかった。
だからこそ、バルエルはそんなクオンの事などまるで如何でも良いとばかりに放置し、クィクィを睨み付ける。ヴェネーノに対してまるで無防備なそれは、しかしとても不意打ちを仕掛けられる様な雰囲気では無かった。
「ははっ、そういえば君の天使嫌いは相当なものだったね。忘れてたよ。まぁでも、言うのは自由だからね。この話はまた後でしよっか?」
それだけ言うと、バルエルは改めてヴェネーノと向かい合う。魂から聖力を放出させ、聖剣を握り、金色の聖剣を燦然と輝かせる事で、眼前に浮かぶ悪魔と龍の綯交に鋭利な殺気を向ける。普段温厚な性格をしている彼とはとても思えない程の態度振る舞いは、それだけ眼前の敵の実力に油断していないという事の表れだった。
対して、そんな彼に見つめられるヴェネーノもまた、龍装を組む事で一心同体となったシンクレアの魂から龍脈を放出させる。そして、それを自身の魂から産生される魔力と結び付かせる事で龍魔力と成し、全身へ循環させる。同時に、その瞳に龍魔眼を宿らせつつ手には龍の爪を彷彿とさせる龍魔爪を構築する事で、眼前の敵から溢れる殺気に対抗する。
その対面は、正しく神龍大戦の再来に相応しい程の過激さ。レインザード攻防戦で彼彼女らが生み出していたあの絶望感より規模は狭いが、その分局所的に濃縮される事でそれ以上の激しさを生み出していた。
尤も、それは当然だろう。天魔の理が定める力の放出上限内で戦っていたレインザード攻防戦に対し、現在のこれはそうでは無い。バルエルは理を遵守して構えているのに対し、龍装ヴェネーノはその限りでは無い。二柱の神の子の合力という事もあり、必然的に理を突破してしまっているのだ。
尚、それでも実際の所は、神龍大戦当時処かレインザード攻防戦の前晩や先日神界で繰り広げられていたアルピナとセツナエルの対面にすら未だ及んでいない。天魔の理を遵守しつつもほぼ形骸化していた神龍大戦は兎も角、天使長と悪魔公の対立はそれ程迄に頭一つ飛び抜けているのだ。
その証拠に、レインザード攻防戦時と異なりベリーズ上空の空は依然青空の儘。地界の外膜が融解し龍脈が地界内部に浸潤していなければ、その兆候すら確認されていない。所詮はその程度の規模でしか無かった。
だからこそ、彼らの対面を窺いつつも、アルピナもスクーデリアもクィクィも大した焦りの素振りは見せていない。それでも唯一クィクィだけは、持ち前の天使嫌いを遺憾無く発揮させる事でバルエルの背中に冷汗を滲まさせていた。
それでも、余り彼にばかり構う様なマネはせず、彼女らは改めて周囲を取り囲む天使達に意識を向ける。アルピナとスクーデリアは魔剣を握り、クィクィは拳に魔力を纏わせ、クオンは遺剣に龍魔力を滾らせ、其々《それぞれ》天使達に攻め掛かる。
次回、第322話は8/15公開予定です。




