第320話:クィクィの怒り
「君がそこまで言うんだ。好きにしてみると良い。それに、暫く封印乃至放逐されていた彼らのストレス発散にも成る。丁度良い機会だろう」
「へぇ、それじゃあ御言葉に甘えようかな?」
そう言うと、バルエルはアルピナに背を向けてヴェネーノの方へと向かう。その姿は非常に隙だらけであり、背中から適当な攻撃を仕掛けたらクオンでも容易にダメージを負わせられそうな雰囲気にしか感じられない。
それでも、アルピナはそんな彼に攻撃を加える事無く素直に送り出す。そして、彼の目線の先で浮かんでいる龍装を組んだヴェネーノに対して金色の魔眼を向ける。同時に、そこから放たれる鋭利で冷たい眼光が、彼らの魂を詳らかにする。
「貴女が相手を譲るなんて、一体如何いう風の吹き回しかしら?」
そんな彼女に対して、スクーデリアは背後から問い掛ける。金色に輝く不閉の魔眼で周囲の天使達を警戒しつつも、しかしその態度は非常に平和的。まるで子供の成長を温かく見守る母親の様な眼差しであり、狼の如き妖艶さと組み合わさる事で、その瞳は言葉に言い表せない美しさを秘めていた。
「失礼な。ワタシも少しは成長した、という事だ。それに、現状の悪魔の数と今後の抗争の激化を考慮すれば、神龍大戦の様な大規模な犠牲は許容出来無い。今の内に上位階級の実力に慣れておくべきだろう。何より、今ならワタシ達で守れる。リスクはゼロだ」
スクーデリアの言葉に対して、アルピナはややムッとした口調で反論する。同時に、その頬はやや紅潮しており、如何やら若干の照れ隠しも含まれていた様子。それでも、あくまでも口だけの反論で済ませて攻撃的手段に出ていない辺り、彼女なりに心当たりがあったのだろう。兎も角、そんな彼女に対して、スクーデリアは優しく微笑み返すのだった。
「ふふっ、ごめんなさいね。私が悪かったわ。……ならその間、私達は他の天使達の相手をするとしましょう。それとも、セナ達を助けに行った方が良いかしら?」
「そうだな……いや、セナ達はこの儘で大丈夫だろう。如何やら、面白い助太刀が来るようだからな」
「面白い助太刀?」
アルピナの言葉に対して、クオンは首を傾げて尋ねる。龍魔眼でセナ達とレムリエル達による戦いを注察するが、しかしそれらしき痕跡も予兆も確認出来無かった。果たして彼女の魔眼に何が映っているのか皆目見当が付かず、クオンの頭上には複数の疑問符が浮かぶ。
尚、そんな彼の態度振る舞いは、実はある意味では当然であり、ある意味では不誠実なものだったりする。と言うのも、理解出来ていないからと言って即断罪される様なものでは無いし、何より経験が浅いからこそ未だ視野が狭い儘なのだ。致し方無いだろう。
「ハハハッ、君も未だ未だだな」
だからこそ、彼のそんな困惑に対して、アルピナもスクーデリアも宛ら親心に似た眼差しを微笑みを浮かべるのだった。そして、龍装を組んだヴェネーノが最も戦い易いと思える環境を拵えてあげる為にも、周囲に未だ無数と存在する天使達に殺気を向けるのだった。
「さて、もう暫く天使達の相手になってやるとしよう」
そして、アルピナは片手に魔剣を握り締め、もう一方の手掌に魔弾を構築する。瞬きをしている暇があればその瞬間にも魂を肉体諸共神界へ送り飛ばされそうな覇気が空間を満たし、並み居る天使達は揃って身を強張らせる。取り分け、神龍大戦時のアルピナを知っている者程より鮮明な恐怖を思い描き、これが夢である事を切望するのだった。
また、その流れに乗る様に、スクーデリアとクオンも同様に備える。スクーデリアは魔法を構築し、やや面倒臭そうな溜息を零して天使達をその狼の如き妖艶な眼差しで見据える。クオンは龍魔力を乗せた遺剣を構え、上位存在に対する警戒心を心身に纏わせる。
そんな時、不意に彼彼女らの足元に広がる崩壊した岩瓦礫が音を立てて崩れ落ちる。最早先程迄の美しい自然的色合いは影も形も無く、生命の存在を感じさせない灰色の退廃的風景が辺り一面に広がっていた。
軈て、そんな岩瓦礫が音を立てて崩れ去った跡地からは、これ迄姿が見えなくなっていたクィクィが現れ出た。傷こそ負っていないものの、しかし頭髪も肌も衣服も瓦礫埃で汚れている様だった。その相好は明らかに不機嫌であり、近付くのも憚られる代物だった。
そんなクィクィは、魂から魔力を放出させて全身を洗浄する。すると、雪の様に白い肌も、漆黒色を基調としたフードパーカーとショートパンツも、正面から見ればザンバラな少年的ショートカットに見えつつも襟足を細く長いアンダーポニーテールに纏めた緋黄色の御髪も、其々瞬く間に清潔で可愛らしく整えられる。
そして、ふぅ、と大きく溜息を吐き零した彼女は、上空に集結する無数の天使やそれと敵対するアルピナ達、そしてシンクレアと龍装を組んで一心同体となったヴェネーノを睥睨する。後ろで組んでいた手を解いて両腰に当て、内心に溜まる苛立ちを透けさせる様な冷たい声を発する。
「あのさぁ……未だボクがいたのに随分と乱暴なマネするね、ヴェネーノ。これは御仕置きが必要なのかな?」
声色こそ彼女らしい可愛らしく明朗なものだが、しかしそこから滲み出る怒りの感情は決して遊び半分で零しているものではない。クオンに解放されて以降に限ってもこれ迄何度か似た様な態度をアルピナに対して向けていたりもしたが、それとは明確に異なる事は付き合いが浅いクオンでも容易に気付く程。
だからこそ、その感情の矛先を向けられているヴェネーノは、冷汗を吹き流しつつ純粋な恐怖に震える。明確な味方であり乍らも明確な敵となってしまった同胞に対し、如何言葉を返せば良いのか分からなかった。寧ろ、如何返しても全て言い訳と断じられそうな気しかしなかった。
その為、その視線は直ぐ目の前迄迫り来ていたバルエルから一度クィクィへと向けられ、その後少々離れた場所にいるアルピナとスクーデリアに向けられる。如何にかこの状況を助けて欲しい、と目で訴え、直接言語化する事も無ければ精神感応を構築する事も無く、只必死になって懇願する。
そんな彼の訴えを前に、アルピナとスクーデリアは揃って冷笑を浮かべる。クィクィが何を思い、それに対して何をしようとし、それに対してヴェネーノが何を願っているのかが全て判明した今、彼女達の心は憐憫の情と好奇心で満たされていた。
だからこそ、アルピナとスクーデリアは肩を並べつつ互いに目配せをする。最早相性上不利な天使達に包囲されている事も、直ぐ近くに人間の町がある為に間も無く見つかりそうな事も、セナ達が死の危機に直面している事も、その全てを忘れているかの様な態度振る舞いだった。
「如何する、スクーデリア?」
「放っときましょう。私達に責任は無いもの」
そうだな、とアルピナは、スクーデリアが賛同してくれた事に対して憎たらしく冷徹な笑みを浮かべる。彼女の正体を知っている者からすれば非常にステレオタイプな悪魔らしい姿だと思えるし、しかしそうでは無い者からすれば、少女的見た目から放たれる印象との乖離に茫然としてしまいそうだった。またスクーデリアに関しても、その優雅で美麗な上流貴族の様な立ち振る舞いからは思い掛けない冷徹さを醸し出していた。
そして、アルピナはそんな自分達の思いを一切包み隠す事無くヴェネーノに対して向ける。決して彼に恨みは無いが、しかし彼女とてクィクィには逆らえないのだ。その上でスクーデリアが賛同しているのだから、もう如何しようも無かった。
次回、第321話は8/14公開予定です。




