第310話:聖拘鎖
尤も、悪魔である彼女に龍が敵対する事は先ず無いだろうし、何より波長からして正体がシンクレアである事に疑いようは無い。お互い勝手知ったる間柄だし、何よりこの少年がいる限りは絶対安全なのだ。それこそ、下手に洗脳されていたり記憶と理性を奪われていなければの話だが。
兎も角、クィクィは躊躇無く奥へ進む。仮に敵対する様な事があってもシンクレアなら体格差の問題があるにせよ単独でも如何にか抑え込める。最悪、岩窟の外に適当に放り出してアルピナ達の手を借りれば良い。若しそれで人間達に見られても、記憶を改竄すればそれで済む話なのだ。
だからこそ、クィクィの心には一切の焦りは見られなかった。龍を目撃した事によるヒトの子の恐慌はこれ迄も幾度と無く経験してきたし、その対応の為の記憶改竄だって同様である。魔法が不得手な彼女としては余り好ましい選択では無いが、それも魔法技術に秀でているスクーデリアを頼れば済む話なのだ。そういう事もあって、その思考は直ぐ様彼女の意識の外へと消え去るのだった。
そして、クィクィと少年は遂に目的としていた驪龍の岩窟最奥部に到着する。濃密な聖力で生み出された神聖な扉を潜った先に広がる濃密な龍脈が全体に満ちる不穏な暗闇の中に、彼女らは肩を並べる様にして踏み入ったのだ。
といっても、そこに広がる空間はこれ迄進んできた岩窟と何ら変わらない風景。面白みの欠片も無いゴツゴツとした岩肌が周囲を取り囲み、陰鬱とした空気が龍脈と混ざり合う様にして淀んでいる。何一つとして魅力を感じないまるでつまらない光景が静かに鎮座しているだけだった。
如何やら、聖力と聖法によって構築されていたのはあの扉だけだった様子。内外を仕切りその奥で行われているであろう何かを隠す為だけに用意された、ある種の境界線としての役割に過ぎなかったのだ。
では、その何かとは一体何であろうか。シンクレアの龍脈が存在するという事はそこに彼がいるという事だが、果たして彼を利用して何を目論んでいるのだろうか。その真相を確かめるべく、そして少年の深層意識に宿る目的を果たすべく、何が来ても良い様な心身の備えを彼女らは構築するのだった。
「GRAAAAAAAAAAR!!」
その時、暗闇の奥から狂気に満ちた叫声が轟く。まるでこの世の終刻を告げる灰色の慟哭を彷彿とさせるそれは、内臓の奥底から震え上がる様な響きを岩窟内に幾重も反響させる。人間社会に本来存在してはならないのではないか、とすらも感じさせられてしまう程に、それは突発的且つ非現実的だった。
だからこそ、少年は咄嗟に耳を覆ってその場にしゃがみ込む。途轍も無い何かが襲来してきたのではないか、と魂が震えを上げ、生きる事に対する諦観にも見た恐怖が全身を包み込む。或いは、覚えていない記憶が自身の本能に何らかの作用を及ぼしているのかも知れない。そう思わせられる様な気分だった。
それと、単純にその声が大き過ぎたのだ。何の予兆も無く突如として劈くその轟音を前にしては、仮令どれだけ心身に覚悟を纏わせていても驚かずにはいられなかった。日常生活では如何頑張っても聞く機会が無い程の大きさなだけあって、心が平穏を許してくれなかったのだ。
それに対して、クィクィは少々驚いた様な相好を浮かべてはいるものの、それ以外は常日頃と何ら変わらなかった。それは、魔法の光球を浮かべても尚見通せない程深い暗闇の向こうに鎮座する正体に初めから気付いていたというのも大きいが、何よりその声に対して懐かしさを抱いていたのだ。数千年振りに耳にした比較的馴染み深い知人の声なだけに、驚きの感情よりも嬉しさや懐かしさが先行して彼女の魂を温かく満たしていたのだ。
「クィクィさん……?」
恐る恐るといった具合に、少年はクィクィを呼ぶ。一体何が起きているんだ、という困惑を隠し切れず、心中に宿る恐怖の感情もあってその声は小刻みに震えていた。それ処か、その顔色は恐怖を通り越した別の感情に移行しかけているかの様な印象すら抱かせる程だった。
だが、そんな彼に対してクィクィは目線を合わせる様にしゃがみ込むと、可愛らしく微笑み掛ける。大丈夫だよ、とその心配を掻き消すかの様に頭を軽く撫でてあげると、改めて立ち上がりつつ眼前に広がる暗闇に視線を向ける。
神の子としての驚異的な視力があるお陰で全て見えているが、しかし少年にもその叫声の正体を詳らかにさせてあげる為に、彼女は直ぐ眼前に浮かべてある魔法の光球に魔力を注ぎ込む。そして、光量を増すその光球を指先に浮かばせると、眼前に広がる深い暗闇に向かって静かに投げ飛ばすのだった。
軈て、彼女が放った魔法の光球は部屋の丁度中央に迄届くと、その動きを止めて独りでに浮かぶ。そして天井近く迄静かに高度を上げると、部屋全体を隈無く明るく照らし出す様に光量を更に増す。それこそ、真昼の屋外と大差無い程に明るく瞬き、光球は宛ら日輪を彷彿とさせる美しさを見せていた。
そして、突如として眩く照らされる事となった為に強い眩しさを感じた少年は、瞼を閉じて視覚情報を遮断する。そして、その儘刹那程の時間でその明るさに瞳を順応させると、徐に瞼を開いて視覚情報を再び得る様に視線を左右させる。
その直後、少年はその視界に飛び込む衝撃的な光景に対して絶句する。未だ響き続ける何かの叫声なんて最早如何でも良くなったとばかりに意識を奪われ、眼前に広がるその正体を凝視する。言葉に成らない声を漏らし、只茫然とその正体を見上げるだけだった。
その正体とは、ずばり龍。それも、暁闇色に妖しく輝く聖力の鎖である〈聖拘鎖〉で全身を厳重に拘束されている様だった。そしてその鎖の輝きが増す度に、その龍は苦痛に悶える様に龍脈を魂から零しつつ悲鳴と呼ぶに相応しい叫声を何度も何度も上げ続けていた。
その龍こそ、クィクィが再会を待ち望んでいたシンクレアに他ならない。体長は長い尾を含めて19m程であり、龍という種族全体で見れば平均より僅かに大きい程度。石竜子を彷彿とさせる四足歩行に適した身体は黒鉄色の鱗で覆われ、背中に相当する部分からは一対二枚の巨大な翼が伸びて全身を繭の様に包む事で〈聖拘鎖〉から身を護る様に縮こまっていた。
クィクィもまた、少年と同じ様にシンクレアに対して無感情な視線を投げ掛けつつその姿をジッと観察し続ける。果たして彼女が何を考えているか少年には何も分からなかったが、だからこそ余計な事をしない様に静かに見守るだけだった。
「馬鹿だなぁ~シンクレアも。バルエルが相手だったし仕方無いとはいっても、相性上は有利な筈なんだけどなぁ。まぁボクもルシエルに支配されてたし、あんまり強い事は言えないかな?」
さて、とクィクィは両腰に手を当てて意地悪な笑みを浮かべつつ小さく息を吐き零す。そしてそれに続く様に、魂から黄昏色の魔力を放出させる。空間に満ちる龍脈やシンクレアを拘束している聖力の鎖に負けない様に力を強めると、彼に手掌を翳す様に彼女は片手を上げる。そしてその鎖を断ち切るべく、彼女は魔力を注ぎ込んでいくのだった。
しかし、その鎖は智天使級天使であるバルエルの聖力による聖法である。相性上不利であり且つ年齢的にもかなりの差がある彼の聖法を破るのは至難の業である。おまけに、クィクィは魔法技術や魔力操作技術が実力や年齢を基準にすればかなり下手な方。全く出来無い訳では無いが、しかし取り分け魔法技術に関してはヴェネーノやワインボルトにも負け兼ねない程には苦手。その為、その余裕そうな態度振る舞いに反して心中はそこ迄余裕綽々では無かった。
次回、第311話は8/4公開予定です。




