第309話:最奥の扉
「やっと着いたみたいだね。大丈夫? 怪我とか無い?」
穏やかで気さくな少女の如き可愛らしい笑顔と口調で、クィクィは少年の心に問い掛ける。魔眼を開けばそんな事は態々《わざわざ》確認する迄も無いのだが、しかしこういうのは直接言葉で交わされるべきだと彼女は常々考えている。
と言うのも、魔眼で一方的に確認するよりもこの方がそういう気配りが明確化されるし、何より単純に楽しい。無言の間に交わされる必要業務としての視線の遣り取りは、幾らそれが効率的とは雖も余りにも静か過ぎる。効率では語れない情的な温かみがそこには存在するのだ。
「はい、僕は大丈夫です。……それより、この奥ですね」
少年は口腔内に溜まった唾液を飲み込みつつ静かに呟く。彼の眼前には巨大な扉が鎮座し、彼を厳かに見下ろしていた。それは、自然的なこの岩窟の最奥部に位置するには余りにも似付かわしくない人工的な物体。荘厳さと神聖さを抱き合わせた、まるでゴスペルが奏でられる直前の教会を彷彿とさせる静けさだった。
少年には一切の記憶も知識も無いが、しかし自身の目指していた目的地が間違い無く此処であると何故か確信していた。痛い程の心臓が拍動し、高速で体内を循環する血液が彼に眩暈を齎す。呼吸が浅くなり、途方も無い不安と恐怖が魂に突き刺さる。
対してクィクィもまた、彼と同じ様にその扉を茫然と見上げつつそこから零れ出る神聖さと荘厳さに眉を顰める。と言うのも、人間的視座では只単純な神聖さにしか感じられないそれも、しかし魔眼を介して見れば解釈が変わる。その神聖さは間違い無く天使に宿る聖力によるものであり、この扉やその奥に広がっているであろう空間が全て天使の聖力操作や聖法によって構築されたものである事を証明していたのだ。
しかし、此処は驪龍の岩窟。神龍大戦時にシンクレアを始めとする一部の龍やそれと比較的仲が良い一部の悪魔が根城にしていた場所。つまり、此処は龍と悪魔の縄張りであり、或いは思い出の地とも言える場所。決して、天使如きが侵して良い領域では無いのだ。
尤も、クィクィ自身としてはそれ程深い思い出は無い。確かに彼女は、シンクレアとは彼がヴェネーノの相棒だという縁もあってそれなりに仲が良かった。また、その縁もあって状況次第では共闘する事もそれなりにあった。終戦後も、自身がルシエルの天羽の楔に囚われる迄は何度か顔を合わせた事だってある。
しかし、裏を返せばその程度でしかないのだ。彼女にとって仲が良い龍とは、彼女の相棒たるログホーツやその周囲の龍が大半。それに、大戦中に驪龍の岩窟を訪れた事は無い。地界にいる間は基本的に文明崩壊していない人間社会の中に紛れていたし、何より龍と関わる際は龍の都を訪れていた。
そういう訳もあって、当事者意識には及ばない程度の不快感しか抱いていなかった。それでも、シンクレアがヴェネーノの相棒と言う事もあり、それ相応の憤懣は宿していた。何より、この少年の為にも速やかに事の事態を納めなければならなかった。
だからこそ、クィクィは少年に目配せしつつ可憐に微笑むと、その扉に向けて片手を翳す。魂の内奥で産生された黄昏色の魔力が彼女の右手掌に集約し、悪魔的禍々しさに修飾された美麗な覇気が空間を満たす様に迸る。
そして、その魔力は眼前に聳える巨大な扉に施された施錠を静かに解いていく。そこには、彼女の本質的性格が持つ子供っぽい荒々しさは一欠片たりとも含まれておらず、彼女の根幹を成す悪魔としての威厳だけが表出していた。
軈て、ものの数秒程でその扉の主導権は全てクィクィへと移譲される。正確には強奪したと表現すべきかも知れないが、兎も角クィクィの手中にある事には変わらない。それを示すかの様に、扉から漂う神聖さは鳴りを潜めている様だった。
ふぅ、とクィクィは小さく可愛らしい息を吐き零す。そして、黄昏色の輝きを失った右手を下ろすと共に全身の力を抜いて気持ちを緩める。また、体内を循環する魔力の大半を魂の内奥へと帰還させ、瞳に残存した魔力を操作して魔眼を凝らす。
「うん、これで大丈夫かな? よしっ、それじゃあ早速入ろっか!」
ほら行くよ、とクィクィは少年の手を引いて扉の前へと躍り出る。少年もまたそれに呼応する様に少々慌ただしく返事をすると、彼女に引っ張られる様にして後を追う。そして、二人は扉の直ぐ目の前に立つと改めて一度立ち止まる。
その一瞬の間を挟み、クィクィが扉に手を掛ける。身の丈を遥かに超える巨大な扉は非常に荘厳であり、態々《わざわざ》計測しなくても非常に重たい事は明白。憖外見が10代前半の少女にしか見えないクィクィでは如何頑張っても開けられる筈が無い様にしか感じられない。その上、少年もまた彼女と余り変わらない外見年齢。幾ら筋力に於ける性別的優位性があるとはいえ、年齢を考えればたかが知れている。その為、幾ら二人掛かりでもその扉は決して開けられそうには見えなかった。
しかし、クィクィはその扉を容易に開ける。それはまるで一般家屋の室内扉を開けるかの様に悠々とした所作であり、感心を通り越して奇妙にも映ってしまう。だからこそ、少年もまた彼女のその動きには驚きの相好を浮かべてしまう。幾ら此処数日行動を共にしているとはいえ、やはりそう簡単に慣れる光景では無かった。
だが、一見して奇妙にしか見えないその光景も、クィクィという存在を知っている者からしてみれば実は全く以て不思議ではない。抑、彼女は悪魔であり本質的には人間ではない。幾ら姿形が人間そのものであろうとも、しかし根本的な身体機能が人間とは大きく異なる。その上、単純に彼女の純粋な筋力はずば抜けている。人間のモデルとなった天使及び悪魔の中では右に並ぶ者はいないとされる程であり、凡ゆる動物の基本形となった龍に並ぶ程。
つまり、彼女にとってこの程度の扉は全く以て重さを感じなかったのだ。それこそ、態々《わざわざ》魔力で身体機能を向上させる必要も無い程度の重量感であり、見た目だけの産物でしか無かったのだ。尤も、彼女の筋力を基準にした相対的重量がそうなだけであり、絶対的な重量は見た目通りに存在するのだが。
だが、彼女は見た目こそ可憐で稚い小柄な少女の様にしか見えないが、その実は基本的に単純で脳筋な性格。それこそ、アルピナ以上に力による強硬手段を用いた事態の解決を厭わないタイプと言っても過言では無い。
その為、この手の妨害を前にしてこれ迄の彼女なら適当に魔法を放って扉そのものを粉砕していても何ら可笑しくは無かった。それこそ、外で戦っているアルピナ達だってクィクィが岩窟内で暴れる事は想定していたし、寧ろ久し振りにその暴れっぷりを見たかった程。
だからこそ、こうして極自然な所作で扉を静かに開けるクィクィの姿は本来異常でしかない。幸いにしてその姿を見ている者が何も知らない少年だけだった為に何事も無く過ぎていったが、若しこれがアルピナ達だったら別の意味で少なからず奇妙に思っていただろう。それ程の光景だった。
だがしかし、そんな事は当事者であるクィクィにとっては如何でも良い事。今回だって魔法で破壊せずに正攻法で開錠したのは只の気紛れでしか無いし、気分次第では爆破も視野に入れていた。それこそ、もっと厳重な施錠だったら躊躇なく岩窟諸共爆破していた。
故に、彼女はそんな裏事情などまるで気に留める事無く少年を引き連れて扉の奥へと進んでいく。扉の奥からは、これ迄以上に濃密な龍脈が溢出しており、間違い無くこの先で生きた龍が待ち受けている事を教えてくれていた。
次回、第310話は8/3公開予定です。




