第297話:驪龍の岩窟②
しかし、そんな見た目に反してその女性は正確には人間では無い。その正体は、純粋な天使であり乍ら階級故に種族特有の翼を持たない座天使級天使レムリエルに他ならない。智天使級天使バルエルの側近として彼の手足となり人間社会で過ごす彼女は、髪と同じ藤色の瞳で翠玉色の海面を眺めつつ打ち寄せる波の調べに耳を傾け乍ら穏やかに微笑む。そして、小さく一呼吸挟んだ後に彼女は躊躇も遠慮も無く驪龍の岩窟へと足を踏み入れるのだった。
そうして踏み込んだ驪龍の岩窟内部は、一言で言ってしまえば暗いに尽きる。海蝕洞という構造故に真面に日光が入る事も無く、その上人工的な明かりは一つも無い。あるのは精々、岩窟内部に流入する海水が齎す翠玉色の反射光程度。とても真面な視界を確保出来る光量は存在していなかった。
しかし、そんな暗闇の岩窟をレムリエルは何の不自由も無く進み続ける。ゴツゴツとした岩場に足を取られる事も無ければ濡れた岩場に足を滑らせる事も無く、かと言って水辺に転落する様な事も無く、まるで自宅の中で寛いでいるかの様な軽やかな足取りを絶やす事は無かった。
それは偏に、彼女が人間では無い為に他ならない。抑彼女ら天使は今でこそ天界で暮らしているが、今から凡そ10,000,000年前に〝世界〟が神によって創造される以前は他の神の子と同様に神界及び蒼穹で暮らしていた。その中でも蒼穹に至っては、今でこそ無数の〝世界〟が放つ光によって多少の明るさを確保しているものの、それ以前は原子一つ無い群青色の深闇でしか無かった。
そんな環境であっても不自由無く存在出来る為にも、彼女ら神の子は総じて視覚機能に優れている。何より彼女は、第一次神龍大戦終結以後に生まれた、所謂蒼穹に各〝世界〟が創造されて以降生まれた新世代の神の子では無く、歴とした旧時代の神の子である。
つまり、彼女は蒼穹が群青闇だった時代を知識としてだけでなく経験としても得ているのだ。故に、この程度の薄闇如きで不自由する程彼女はヒトの子では無かった。それ処か、当時を思い出し懐かしむ様な感情すら生まれない程に、この状況は他愛も無い事として適当に処理されていた。
だからこそ、レムリエルは周辺環境に左右される事無くドンドンと岩窟の奥へと進む。別に宙を飛んでも構わないのだが、天井がかなり低い場所が所々見受けられ、頭をぶつけない様に一々配慮するのも却って煩わしい。態々《わざわざ》そんな事に気を遣うくらいなら、初めから歩いた方が気持ち的にズッと楽だった。
「バルエル様ももうちょっと入り易い所にしてくれれば良いのに……」
幾ら環境的に気楽とはいえ、それでも岩窟の中というのは相応に悪環境。街や家の中の様に大枠から細部に至る迄の一切合切が人工的手段によって整っている訳では無い為、やはり如何してもストレスが溜まってしまう。
何より、レムリエルは天使という神の子ではあるものの生物学的には女性に区分される。勿論、ヒトの子たる人間の女性とは異なる本質からして異なっているが、大枠の方向性は似通ってくる。可愛くて綺麗なものが好きだし、御洒落に着飾ったり御粧しするのも好きだし、人間社会に紛れて友人と仲良くショッピングやカフェ巡りに興じたりするのも好きだ。
だからこそ、こんな陰鬱とした小汚い場所には余り来たくないのだ。確かに、入り口付近は翠玉色の海底から反射する太陽光線が岩窟内に差し込む事で幻想的な輝きを齎してくれるが、しかし言い換えればそれしか無いという事でもあるのだ。
勿論、レムリエルだって最初は素直に感動したものだ。抑としてこういうのは別に嫌いでは無いし、寧ろ好きな方。何より、天界にあるそういった類の幻想的な自然風景からはそれ程感動を齎される事が無くなった。
と言うのも、天界は只でさえ空間全体が朝焼けの様な暁闇色一色に染まっているし、大戦による彼是があったとはいえ既に10,000,000年も暮らしているのだ。代わり映えの無い光景を前に見飽きてしまうのも当然だろう。
それでも、幾ら地界の景色とは雖もこう何度も見てしまえば軈ては同じく見慣れてくるものだし、単純に飽きてくる。その為、その幻想的な光景も今では至って当然な日常の一コマとして適当に処理され、その後はちょっとした気休め程度にしかならないのだ。
しかし、だからと言って来ない訳にはいかない。此処には彼女が太古より付き従うバルエルがいる。その上、彼が計画した魂の秘匿に関する秘密が詰まっているのだ。我が君こと天使長セツナエルからの使命を果たす為にも、そして単純に彼の為にも、必然的に此処には頻繁に訪れる必要があるのだ。
故に、露骨に大きな溜息を零しつつもレムリエルは黙々と進む。それでも、可愛らしくありつつも美麗にも感じられる様に御洒落に着飾った清楚な服や靴を極力汚さない様に、ある程度の注意は払い続けている。尚、アルピナ達との戦闘で既にそれなりに汚れてしまっているが、それに関しては仕方無いのだ。対してこういう場での汚れは、所謂本来なら避けられる汚れに区分される。結果としては同じだが、そこに至る際の精神的苦痛には雲泥の差があるのだ。
軈て岩窟のある程度深い所迄進んだ時、レムリエルは一度立ち止まる。既に入り口は見えなくなっており、進行方向にも未だ未だ空間は繋がっている。果たして何処迄繋がっているんだ、と辟易としてしまう様な長さだが、だからこそ却って隠れ蓑にするには都合が良かったのだ。
そんな中、レムリエルは徐に息を吐き零すと魂から聖力を放出させる。天使を象徴する暁闇色のオーラを纏う聖力が血液に乗って四肢末端に至る迄の全身に隈無く満ち、彼女の非人間的要素が前面に押し出される。
しかし、別に周囲に敵がいる訳では無い。魔物も悪魔も、それ処かヒトの子だって近くには存在しない。しかし、彼女は此処で聖力を放出した。正確に言えば、放出しなければならなかった。幾ら座天使級天使とは言え、それは必然だったのだ。
その理由は、岩窟の奥から風に乗って運ばれてくる自身にとって相性上不利となる力。つまり、神の子が一角を占め天使に対して相性上優位に立つ龍が持つ種族の根源たる力である龍脈に対抗する為。琥珀色のオーラを纏うそれが、静かに牙を剥いて空間に充満し始めたのだ。
尚、正体と理由に関してレムリエルは既に知っている為、それ自体について今更動揺する事も困惑する事も無い。至極当然な行動の一環として、彼女はそれを平然と行う。尤も、龍脈を相性上不利な聖力で守る事は余り効率的では無い。しかし、他に手段がある訳では無いし遥か以前の神の子が神により創造された時から何も変わっていない為、客観的には不自然でも主観的には自然だった。
ふぅ、やっぱり龍なだけあって力だけは飛び抜けてるわね。
素直さの中に嫉妬を交えた感想を心中で漏らすレムリエル。岩窟の深奥から零れ出る龍脈の濃度は、幾ら死亡経験の無い座天使級天使とは雖も到底無視出来ない程に強大。それは、相性の関係を無視しても同様の事だった。
しかし、この龍脈の放出主である龍シンクレアは比較的若い龍。尤も、幾ら若いとは言ってもそれは神の子全体の歴史や無限の寿命を基準にした上での若いという意味であり、決して人間の価値観や有限の寿命を基準にしてはならない。
そんな彼シンクレアが生まれたのは、この星の暦を基準にすると今から約10,000,000年前の第一次神龍大戦終結直前。相棒たる悪魔ヴェネーノよりは500年程早く生まれた事になる幼馴染。因みに、ヴェネーノと同じく神龍大戦を最後迄生き残った五柱の悪魔が一柱にして彼と仲が良いワインボルトがシンクレアとは同い年の関係に当たる。
次回、第298話は7/22公開予定です。




