第296話:驪龍の岩窟
ねっ、と少年の顔を覗き込み乍ら微笑むクィクィ。少年らしいザンバラなショートカットに少女的な細く長いアンダーポニーテールを組み合わせた緋黄色の髪を日輪の下で艶やかに靡かせつつ、それと同色の大きな瞳は宛ら花の様な愛らしさを抱かせてくれる。
それに対して、少年は茫然と見つめ返す事しか出来無い。この人は一体何を言っているんだ、という困惑の声が聞こえてきそうな程に分かり易い顔色を浮かべ、背後から抱き着いてくる悪魔に身を委ねてされるが儘になるのだった。
だからこそ、クィクィはより一層面白がって少年は可愛がる。それは宛ら大きな縫い包みを抱き抱えているかの様に、或いは恋人に夢中になる純朴な青年の様に見えつつも、しかし邪だったり淫らな印象を抱かせない純粋な笑顔によって行われていた。だからこそ、アルピナ達は当然として周囲の者も、そして少年自身もまた彼女に対して不信感や嫌悪感を抱く事は一切無かった。
そして、そんな人間好きな彼女らしい可愛らしい戯れ合いを前にしつつ、アルピナとスクーデリアは揃って彼女の言葉に同意の意図を込めて微笑む。言われてみれば実際にその通りでしか無く、最早他の可能性を考える余地は一欠片たりとも残されていなかった。寧ろ、今更になってそれを考えている自分達が恥ずかしい迄ある始末。
「そういえばそうだな。やはり、当初の予想通りだった、という訳か」
「えぇ、そうね。最初は意図が読めなかったけれど、漸く辻褄が合ったわね」
やれやれ、とアルピナは自身の蒙昧さに対して苦笑しつつ、改めてその事実を共有する様に呟いた。スクーデリアもまたそれに同意する様に苦笑し、アルピナと同じく自身の愚かさを帳消しにしようとするのだった。
しかし一方、少年は元よりクオンもまた彼女らの言っている事の意味が何一つ理解出来無かった。只でさえ純粋な人間として神の子に関する基本的知識が完全に欠落している上に彼女らによって意図的に情報が統制されている事もあって、予測を立てる事すら儘成らなかった。
「如何いう事だ? そろそろ、俺達にも教えてくれないか?」
だからこそ、クオンはアルピナ達に対して尋ねた。痺れを切らした様に不満げな声色と口調を纏うそれは、実際に少しばかり苛立っていた。幾ら自身が下位種族で相手が上位種族であり、契約によって自身の時間を捧げて忠誠を誓っているとは雖も、こうして寝食を常に共にしていたら友人の様に心を開いてしまうのだ。
いや、勿論それが誤りである事は承知している。契約や種族による上下関係は絶対であり、抑としてこうしてたかが人間が悪魔から大切に思われている事自体が異常事態であり有り難く思うべきなのだ。決して慢心して同格の存在だと思ってはならない筈なのだ。
しかし、そんな憤懣滾る声色と口調で尋ねようとも、アルピナ達は然程驚く事も焦る事も無い。確かに、命に代えてでも護り抜くと決めているクオンから負の感情を向けられたとあって多少の動揺こそ見られるものの、しかし裏を返せばその程度でしかないという事。やはり、神の子とヒトの子という絶対的な格差というのは到底覆す事は出来ず、本能に染み付いている上下関係のせいでその反応は軽く遇われるだけだった。
それでも、完全にバカにしきって嘲笑する程彼女らは蒙昧では無い。尋ねられたらそれに見合うだけの回答は用意するし、開示出来る情報については素直に開示する。クオンの事を誰よりも大切に思っているからこそ、アルピナの行動は迅速だった。
「そうだな。……しかし、目的となる驪龍の岩窟はもう間も無く。ワタシ達の口から聞かされるよりも、自分の眼で確かめる方が確実だろう」
それだけ言うと、アルピナはそれ以上の回答を口にする事は無かった。スクーデリアとクィクィもまた彼女の意図を汲み取るかの様に言葉を濁し、クオンや少年が求めている様な内容は何一つとして提示しなかった。
故に、それを受けてクオンは納得と不満が半々に折り重なった複雑な感情を漏らす。相変わらずの自由勝手な態度振る舞いは最早慣れたつもりだったが、こうも焦らされ続けていると未だ全然慣れていなかった事を再確認させられる。
それでも、だからと言って無理に駄々を捏ねて強請るのも何処かおかしい為、この場は大人しく引き下がる。それに、驪龍の岩窟にさえ辿り着けば事の真相が分かる、とアルピナが保証している。彼女がそれを言う限りに於いて、それは確実な未来として存在するのだ。何も不安視する必要は無かった。
少年もまた、クオンと同じく今直ぐにでも事の真相を聞き届けたかった。何より、クオンと違って少年は自身の記憶や境遇そのものに深く関与している。その思いはクオンが抱くそれとは比較にならない程に強く重い。
それでも、彼もまた無意識の領域でアルピナ達に対して全幅の信頼を預けている。果たしてその信頼の根拠が何処に存在するのかは少年自身理解していない——抑としての信頼自体が完全な無意識な為、理解のしようが無い——が、しかしそんな事はこの際如何でも良かった。
だからこそ、少年もまたクオンと同じ様にこの場での追及は遠慮した上で驪龍の岩窟を目指す。幸いにしてベリーズ郊外の海岸線という事もあり、大した距離では無い。その為、結論の先送りとは雖も大した程度にはならなかった。
そして、そんな二人のヒトの子の思考を読心術で把握しつつ、アルピナ達悪魔は其々《それぞれ》心中で微笑む。それは、自分達が吐き零した勝手なお預けを彼らが素直に汲んでくれた事に対する感謝であると同時に、もう間も無く訪れるヴェネーノとの再会に対する喜びでもあった。或いは、驪龍の岩窟に待ち受けているであろうシンクレアとの再会に対しての喜びかも知れない。何れにせよ、決して悪い感情は抱いていなかった。
その儘、三柱の悪魔と二人の人間はベリーズの町を横切って海岸線を目指す。人間的には喜ばしくも悪魔的には苦痛となる陽光がその存在をこれでもかと主張し、痛い程に肌を刺激する。そして、鼻腔を満たす潮騒に御髪を靡かせ乍ら、恐らく待ち受けているであろう天使達との戦いに心身を備えるのだった。
【同刻 プレラハル王国ベリーズ近郊:驪龍の岩窟】
それは、アルピナ達が人間から得た情報を頼りに驪龍の岩窟と呼ばれる地点を目指し、四騎士及び英雄達が天使と悪魔の抗争によって生み出された被害の片付けに精を出している頃。そんな町の喧騒から少しばかり距離を取った翠玉色の海原が一面に広がる海岸線の片隅に開けられた海蝕洞は、今日もまた何時もと変わらない静謐で荘厳な空気を漂わせている。
そんな自然的であり乍らも何処か人工的な印象を抱き合わせているその岩窟は、近年竜と総称される様になった琥珀色の角を有す謎の生物の化石が多く出土した事から驪龍の岩窟と呼ばれる様になった場所。度々真相解明を目的とした調査隊が派遣されているが、未だこれと言った手掛かりは得られていない。それ処か、一般認知度が高まるに従って霊的な噂が多く誕生してしまう始末となっている。
そのお陰もあってか、或いは単純に危険だからというだけかも知れないが、何れにせよ余り大規模な調査開発は行われていない。超自然的な神聖さと荘厳さと穏やかさを兼ね備えた秘境として、一部界隈から根強い人気を得ている程度となっている。
そんな折、岩窟の入り口に一人の人間が降り立つ。その姿は、飾り気の無いノームコアなファッションに身を包んだ20代前半の女性。藤色の長髪を首の後ろで緩く結び、全体的に快活さよりも穏やかさの方が強く感じられる印象だった。
次回、第297話は7/21公開予定です。




