第262話:帰還
これが味方では無く正真正銘の敵だったら如何なっていた事だろうか、と今更になって恐怖心が湧出してくる。そんな雰囲気と内実との乖離が甚だしい彼女達の態度振る舞いは、当事者であるクオンでさえも乾いた笑いしか出てこない。
しかし、同じ神の子として生を受けている以上天使の価値観もそこ迄違わないだろう、という事に気が付くと、改めてクオンは危機感と警戒心を抱き直す。これは決して遊びでは無く生死を賭けた本当の戦闘行為である事を改めて自覚する様に、彼は改めて遺剣を握り締めるのだった。
そして、そんな他愛も無い気楽な会話劇を繰り広げつつも、同時進行的に天使及び聖獣達との抗争は続けられる。天は割れ、地は砕かれ、空気全体が軋轢を生じているかの如き死の世界が辺り一面に広がり、最早人間達が介入して良い段階には無かった。
しかし、人間達が暮らす領域でそんな事が発生しているというのは何とも傍迷惑な話だろう。天使は天界に、悪魔は魔界に暮らすのが基本的原則であり、地界とは人間を始めとするヒトの子に与えられた唯一の楽園の筈なのだ。それをこうも我が物顔で侵害されるというのは、とても彼らヒトの子を管理する神の子がしても良い道理には無いだろう。
或いは、上位種族だからこそこうして自由勝手に暴れ散らかしても黙認されるのだろうか? 何れにせよこの場には、仮令周囲が如何なろうとも何一つ構わないという者しか居合わせていない事は確実だった。人間種が好きで彼彼女らに交じって遊ぶ事の多いクィクィですら、必要な犠牲は厭わない上に自ら手に掛ける事すらも同様なのだ。
そんな彼彼女らが創るこの世の地獄とでも形容すべき光景の直中で、数少ない純粋な人間であるクオンと少年は互いに背中を合わせて其々《それぞれ》大きく息を乱す。乱戦に重なる乱戦で体力と気力が大きく削れた為というのもあるが、何より自分達以外が総じて圧倒的な上位種族という環境が精神的な疲労に拍車を掛けていた。
それでも、少年は兎も角としてクオンはまだ余力があった。度重なる戦闘行為を経験したお陰で相応に心身共に環境に慣れていたというのもあるが、何より遺剣が保有する龍魔力とアルピナから授かった魔力がそれを補って尚余りあるのだ。
残滓程度しか無いにも関わらずこれだけの力を有しているという事実から齎される本体が有する全力の異次元具合には、最早感心を通り越して恐怖すら抱いてしまう。それ程迄に、ジルニアとアルピナの存在が非常に大きく感じられた。
或いは、これ迄はその態度振る舞いや印象のせいで過少に評価していたのかも知れない。しかし、ジルニアは龍の、アルピナは悪魔の頂点に君臨する程の存在なのだ。只でさえ異常な力を持つ神の子の中でも最上位に立つのだから、相応の異次元さを有していても何ら不思議では無いだろう。
だからこそ、そんな存在の力の一端を預かる者としてクオンもまたそれに見合うだけの努力を見せなければならないだろう。態々《わざわざ》契約まで結び亡き友の形見とも呼べる剣を預からせてもらう程期待されているのだから、それに応えられるだけの事はしなければならないだろう。
クオンは改めて大きく息を吐いて己が精神を落ち着ける。魂の深奥から魔力を湧出させ、手にした遺剣から龍脈を自身の体内に逆流させる。黄昏色と琥珀色の光が綯交され、不思議と乱れた心が落ち着く様な気がした。
そして、クオンは波の様に押し寄せる天使及び聖獣の大群に真っ向から立ち向かう。背後で体力と気力を使い果たして動きが鈍くなった少年を守る様に、先程迄彼が受け持っていた聖獣の相手も引き受けるのだった。
しかし、幾ら相手が下級天使だったり聖獣だったりとは雖も、クオン一人でしかも少年を守り乍らというのは数的不利処の話ではない。多勢に無勢に加えた種族としての根本的な身体的性能差に阻まれ、クオンは立ち処に囲まれてしまう。
クソッ……。
マズい、とクオンは本気で命の危機を悟る。それこそ、シャルエルやルシエルと戦った時と変わらないのではないか、と感じてしまう程の状況だった。かといって退き下がる事も出来無ければ少年を見捨てる訳にもいかない。完全な八方塞がりな状況下で、彼は如何にか耐え凌いでいた。
スクーデリアとクィクィも、そんな彼らの状態を見て助太刀に行くべきだと咄嗟に判断する。階級差が生み出す実力差で無数の天使達を蹴散らし、二柱は同時にクオンの方へ意識を向ける。しかし、幾ら彼女らでも数の不利を前にしては如何しても対応が一瞬だけ遅れてしまう。一柱一柱は大した事無くとも、一対二本の腕しかない以上一度に斃せる数にはいくら彼女達と雖も限度があるのだ。
その時だった。クオンの直ぐ正面、それこそ鼻に触れる程の眼前に一筋の雷が落ちる。黄昏色に輝く稲妻が白雲一つさえ無い青空から落下するのは異様な光景でしかなく、轟く雷鳴と衝撃波に釣られて誰もがその地点を振り向いて動きを止めるのだった。
当然、他の天使及び聖獣と共に襲撃に参加していたレムリエルも同様であり、スクーデリアと交えていた剣を止め、雷の落下地点を無言且つ無感情で見据える。首の後ろで緩く一つに纏めた藤色の長髪が衝撃波に煽られる様に靡き、金色の聖眼が警戒の色に輝いた。
一方で、そんな彼女と剣を交えていたスクーデリア及びそこから少し離れた地点で天使達を虫籠の羽虫の如く蹂躙していたクィクィは、何処か含みのある笑みを浮かべる。それは信頼によるものか、或いは無駄に派手な演出に対する乾いた笑みか。果たしてその何方なのかは彼女達にしか知らぬ事。しかし恐らく、その両方の意図を込めていたのだろう。
軈て落雷による衝撃によって舞い上がった土埃が少しずつ晴れ上がる。土色の空気が鮮やかな現実色の空間へと染色され、そこから現れたのは小柄な少女。蒼玉色のメッシュを鏤めた肩の長さの濡羽色の髪と漆黒色の衣装に身を包み、所々から見え隠れする雪色の肌を扇情的且つ快活に輝かせている。
その少女は全神の子で知らぬ者はいない公爵級悪魔アルピナ。僅かに吊り上がった猫の様に大きな瞳を金色の魔眼に染め上げ、その眼光は鋭利に周囲を一瞥する。魂から湧出する氷の様に冷徹な魔力は、その眼光と併せて彼女に悪魔公として相応しいだけの威圧感を与えてくれる。
「アルピナ……!」
クオンは、突如として現れた事に対する驚愕及び意外性と、帰ってきてくれた事に対する安堵及と、眼鼻の先に落雷となって降ってきた事に対する感謝と恐怖と不満が綯交された複雑な感情で彼女の名を呼ぶ。しかし何方かと言えば怒りよりも喜びの方が断然大きかった。その証拠に、その声色は普段と比較して微かに柔らかかった様な気がする。
「たかが天使数柱と聖獣相手に随分と苦戦している様だな、クオン」
やれやれ、とばかりに溜息を零しつつ嘲笑するアルピナ。しかしその瞳は何処か優しく、普段の傲岸不遜さの中にも隠し切れない心配心が見て取れる。彼女らしくないとも言えるし、或いはこれこそが彼女の本質とも言える。そんな印象だった。
そしてそのまま、彼女は改めて周囲で身を固めていたり足下に斃れていたりする天使や聖獣達をザッと観察する。金色の魔眼で彼彼女らの魂を一つ一つ詳らかにし、その詳細を全て自身の持つ記憶知識と照らし合わせる。
どれもが精々中位三隊程度……しかし大半は下位三隊か……。聖獣は兎も角、やはり上位三隊は未だ多くは復活していないのか?
今この場にいる天使の内、上位三隊——即ち、熾天使級・智天使級・座天使級の三階級——に属している天使は、スクーデリアが相手になっている座天使級天使レムリエルのみ。それ以外は何れも彼女未満の階級の様だった。
次回、第263話は6/17公開予定です。




