第250話:天使長と悪魔公Ⅱ-④
「あぁ。此処神界は蒼穹から外れた楽園、所謂〝神の箱庭〟。仮令如何なる理由があろうとも、争う事は決して許されないからな。その程度の事を忘れる程ワタシも耄碌した覚えは無い」
まったく、と溜息を零し乍らアルピナは苦笑する。同じ姿形を有する人間とは比較にならない悠久の時を生きている彼女だが、しかし神の子という特性上年齢に伴って認知機能が低下する様な事は無い。どれだけ果てしない時を生きようとも、その姿形は自身の魂が望む最も適した状態を維持するのだ。
尤も、魂が望む姿形に精神が引っ張られる形で多少の年齢的揺らぎが生じる事はあり得る。しかし、凡ゆる心身機能の中でも負の影響を持つ変化だけはどの精神年齢であろうとも受け付けない仕様になっているのだ。
その為、幾らアルピナとは雖も神界に於ける基本的ルール迄は失念していない。抑、アルピナは神の子の中でも意外と記憶力が良い方に数えられる。悪魔公としての立場上から全悪魔及び龍と一部の天使の顔と名前と魂の色と魔力乃至龍脈や聖力の波長を記憶している程度には、彼女は記憶力に優れている。そんな彼女が、神界での過ごし方などという初歩的なルールを失念している筈が無いだろう。幾ら彼女が規則よりも感情を優先していそうな傍若無人で傲慢な性格をしていたとしても、最低限のルールを踏み外す程バカでは無い。何より、神界はこの世でも最も格式高い神聖な領域。アルピナの権力ですら此処では大した効力を持たないのだ。
しかし、セツナエルは気付いていた。それは、今からほんの少し前の事。アルピナが神々の宮殿最奥部の神々の間で神と対面していた時に起こしたとある一件。直接目にした訳では無いが、開いていた聖眼に飛び込む魔力と神力の流れから何が起きたのかは容易に理解出来た。
だからこそ、敢えてそれをもう一度抉る様に彼女は突き付ける。ふふっ、と柔らに微笑む相好の中で妖艶に輝く魔眼で、彼女はアルピナの魂を睥睨する。そして、そう言いつつ、とアルピナに当時の事を思い出させる様に彼女は言葉を紡ぐ。
「先程貴女は神々《かみがみ》の間で神に魔弾を撃ち込んでいた様ですけどね。あの程度で神が死ぬとは思えませんし何より今に始まった事ではありませんが、しかしまた随分と手荒な真似をした様ですね。そろそろ本気で怒られますよ?」
アルピナが神に対して放った〈魂霧子弾〉の魔弾。あれも当然の事乍ら例外では無く、仮令何があろうとも中立であり続けなければならない神界に於いて本来であれば到底許されない暴力行為の一つ。そしてその中でも、直接神に対して向けられた暴力行為だった。
実際の場面でこそ何事も無く平然とやり過ごされた一連の行為だったが、しかし実はその裏では緊迫のひと時が流れていた。どんな最悪の結末が訪れようとも納得出来る、とそれに気付いた誰もが抱ける程のそれは、当然セツナエルも気付いていたのだ。
しかし、彼女だけは唯一その最悪の想定を一笑に付していた。寧ろ、アルピナならきっとするだろうな、と予想していたし、実際にその通りになったという事で一頻り笑ったものだった。何より、神の性格を考慮すればきっとこうなるだろうな、と信じていたからこそその思いは一入だった。
それでも、アルピナが神界に於ける基本的なルールを破ったという事実は変わらない。幾らそれが大事になっておらず管理者たる神が笑って見逃したとは雖も、やはり完全放置で見逃す事は出来無かった。正義感では無く好奇心が彼女の心を突き動かしていたのだ。
「フッ、必要な行為だ。咎められる事は無い。何より、神の性格は君の方が良く知っているだろう? 余程の事をしない限り、我々が罰を被る事は無い。そうでなければ、神龍大戦などというくだらない対立構造を生み出した時点で我々は揃って魂を消滅させられていた筈だ。或いは、それ以前のタイミングやも知れんがな」
そうだろう?、とアルピナはセツナエルの口先だけの心配をくだらない事として一蹴する。別に神なんて一切脅威足りえない、と慢心している訳では無いが、しかし如何しようも無い程絶望する要素が無かったのだ。
そんなアルピナに対して、セツナエルは返す言葉が無かった。別に今に始まった事では無いし何より間違いでは無い為に反論する事は無い。しかし、だからといって素直に肯定する事もまた出来そうに無い。何とも言い訳がましい言葉だ、と非難したい気持ちだけが只魂の内奥を渦巻いているだけだった。
そんな煮え切ら無い複雑な思いを抱きつつ、彼女はその感情を吐き捨てる様に大きな溜息を零す事しか出来無かった。言葉を荒らげて非難する気にもなれなかった。何方かというと、こんな彼女に太古より振り回され続けているスクーデリアとクィクィ、そして最近新たにその被害者の会に加入したクオンに対して同情を抱く始末だった。
また、嘗て自身も同じ様に振り回されていた時代があっただけに、その想いだけは嘘偽りの無い本心しかなかった。若しくは、出来れば嘘偽りであって欲しかった、という願望に由来する感情かも知れない。
しかし、実は心の片隅で少しばかり羨ましくもあったのかも知れない。また以前の様にアルピナの感情に振り回されたい、と何処かで懐かしさを見出していたのかも知れない。彼我の関係上、案外その可能性の方が高い可能性すらある。しかし、立場上それが叶わないと知っているからこそ、こうして他者に自分を見出して同情する程度に留まっているのかも知れない。
そんな自分の感情に内心で勝手に振り回されつつ、しかし何処か嬉しそうにセツナエルは息を零す。そうですね、と柔らに微笑んだ彼女は殺気の無い穏やかな瞳でアルピナを見つめる。手にしていた魔剣は霧散し、先程迄湧出していた魔力もまた無くなる事で再び以前の聖力が迸出されていた。魔眼は聖眼に、悪魔の翼も天使の翼へと戻り、そこには正しく天使長セツナエルが帰還していた。
「……少し歩きませんか?」
殺気とは対極に位置する穏やかな一言。それは宛ら家族親類と夕餉の団欒を楽しんでいる少女の様に稚く、そして可憐だった。儚くも確固たる自我を有しつつ清楚で慎ましい態度振る舞いは、まるでそれ相応の身分階級が確保された名家の箱入り娘の様だった。
そして、アルピナもまたそんなセツナエルの言葉に対して微笑みを浮かべる。普段日頃の冷徹な眼光と傲岸不遜な雰囲気こそ若干残っているものの、しかし普段のそれとは何処か異なる穏やかさも同時に醸し出している様だった。
また、彼女もまたセツナエルと同じ様に聖剣を霧散させ、瞳は聖眼から魔眼へと戻し、翼も天使的なそれから悪魔的なそれへと戻っていた。同時に、魂から湧出する力も聖力から魔力へと切り替わっており、果たして先程迄両者の力の性質が逆転していた事がまるで嘘の様だった。
仕方無い、とアルピナはセツナエルのそんな提案を面倒臭そうに受け入れる。しかし、苦笑と共に放たれるその言葉の色や調子は決して嫌そうな雰囲気は持っておらず、隠し切れない喜びが醸し出されていた。
そして、アルピナとセツナエルは肩を並べて魂の庭園の小道を歩く。そんな彼女ら各種族の頂点に君臨する二柱の神の子は、背丈から顔立ち迄まるで鏡写しの様に瓜二つ。幸いにして目撃者がいない為に問題は無かったが、こうして横並びになると一瞬何方が何方か分からなくなってしまう。
服装も髪のメッシュ色も異なるし何より雰囲気がまるで異なる為に普通なら絶対に間違えない筈なのだが、より本質的な部分が共通していた。しかしそれは決して嫌な事では無く、寧ろ両者共に嬉しい事だった。そんな束の間の喜びに内心で微かに浮かれつつ、二柱の神の子は庭園の奥へと進んでいった。
大251話は6/5公開予定です。




