第238話:神と悪魔③
何より、アルピナはセツナエルと同じくこの対立の当事者である。いわば原因そのものと言っても過言では無い程に深い関係性があるのだ。その為、仮令嘲笑しようともされようとも、この対立から目を背ける事は出来無かった。
だからこそ、アルピナは自身の置かれた境遇に対して唾棄と嘲笑を零す事しか出来無い。全責任の半分を担うという余りの不遇さと情け無さは彼女にとって最大の恥部であり、出来る事なら目を背けたい現実でもあるのだ。
しかし、幾らアルピナが心からそれを希っても過去を変える事は出来ないし、それに伴う今や未来を全く別のものへと変貌させる事は出来無い。それが現実である。その為、幾らアルピナと雖もその現実を受け入れなければならなかった。
だが、幾らそれだけ憎たらしい現実とは雖もアルピナは性格上そこ迄執念深く引き摺る様なタイプでは無い。多少後ろ髪を引かれる様な思いはあれども、やれやれ、とばかりに溜息を零す事でその気持ちを過去のものへと清算するのだった。
そして、そんな彼女の覚悟と心情を汲み取ったのか神は柔らに微笑む。或いは、彼女が吐露した神眼に対する評価が可笑しかったのかも知れない。何れにせよ、複雑且つ重苦しい感情をその魂の内部で渦巻かせているアルピナとは対極的な平和的且つ穏やかな心情を描いている事は確実だった。
「まさか。今やお主の魔眼は儂の神眼に負けるとも劣らぬ程度には成長しておろう。それに、お主が態々《わざわざ》ここ迄来るというからにはそれ以外の理由など無いであろう。して、一体儂から何を聞き出そうというのかね?」
後ろ手に組みつつ、神は緩徐に言葉を紡ぐ。時間に追われて少しでも早くあの世界に戻ろうと焦燥感に駆られているアルピナとは対照的な神のその振る舞いに対して、彼女は微かにではあるものの苛立ちが込み上げてしまう。
しかし、相手は神である。決して同格の相手でも無ければ格下でもない。彼女ですら到底足下に及ぶ事すら許されない程の上位者たる神。或いは、抑としての強さのベクトルが異なるのかも知れない。同じ土俵で考えていては何時迄経っても答えに辿り着けない様な次元の異なる相手こそ、即ち神なのかも知れない。
何れにせよ、ここでどれだけ感情を露わにした所で彼女程度の力では強引にその流れを断ち切る事は出来無い。幾ら神の子達の中では頭一つ抜けた圧倒的強者として君臨出来ていたとしても、神を相手にしては精々赤子も良い所でしか無いのだ。
故に、アルピナは己の内奥で燻る感情の奔流を理性で強引に鎮め込む。態々《わざわざ》そんな事をしなければならないという現実が重なる事で余計に苛立ちが沸き上がってくるが、しかしそれも如何にか抑え込む事で平時と変わらないだけの平常心を創り出す。
「単刀直入に問う。セツナの……いや、セツナエルの目的は何だ? 天使の本来の役目は神の意志の代行者。即ち、天使とは本来神の直接的配下となる。故に立場上、君ならその目的も朧気程度であれ細部に至る程度であれ周知しているだろう? まさか、知らないとは言わせない」
「やはりその事じゃったか。神龍大戦から始まり現在に至る迄続くお主ら二柱の内輪揉め……と対外的には説明しておる様じゃが、実際の所はそうでは無いからのう。悪魔公、天使長、そして皇龍。各種族の頂点の力を欲するが先に立つものは一つしかなかろうて。それが分かれば、お主もあの子の気持ちが分かるのではなかろうか?」
敢えて直接的な表現を避け、曖昧且つ分かり難い言葉足らずで中途半端で口下手な表現を積み重ねる神。その姿は、まるで責任から逃れ様と記憶喪失とダブルスタンダードを繰り返す哀れな政治家を彷彿とさせる。
己の権威と地位に固執してそれを保持し続け様と意地汚い姿を晒す彼ら彼女ら程では無いにしろ、神が見せるその姿は正にそれに近しい責任逃れの様にしかアルピナとしては見られなかった。憖、その姿をコロコロと変えて実態を掴ませ様としない飄々とした態度だからこそ、それは尚の事だった。
しかし、実態としてはそうでは無いだろう。確かに、神のその発言は真実を隠そうとする意図が見え透いている。しかし、それは神として何か疚しい事があったり知られる事で不都合があったりする訳では無い。
神としては心底如何でも良いのだ。神にとって、神界以外の全て——つまり、神が自ら創み出した森羅万象——はいわば玩具に等しい。それこそ、未だ自我と物心が覚束無い幼子をあやす為に用いる玩具と同等の価値しかない。
つまり、仮令セツナエルが何をしようとも仮令アルピナがそれに対して如何働きかけようとも仮令それによって世の中が如何転ぼうとも、神としては如何でも良いのだ。正確に言えば、如何転ぼうとも神にとっては全てが余興でしかないのだ。
しかし、神も無情では無い。故に、世の変遷は神の視座から見ても喜劇にも悲劇にもなり得る。その為、事と次第によっては神にとっても余り都合の良い結果にならないかも知れない。それでも、それを含めて全てが演劇であり神にとっての余興なのだ。
だからこそ、その為であれば仮令自らの創造した森羅万象が如何いう結末を辿ろうとも介入したり情けを掛けたりする必要は無いのだ。それに、仮に全てが無に帰して喪失してしまったとしてもまた新たに創造すればそれで済む話でしかない。態々《わざわざ》今存在している森羅万象に固執する必要は、抑として何処にも存在していないのだ。
傍から見れば何とも非情で冷徹な存在に見える事だろう。巷では冷徹だの冷酷だのと評価されているアルピナやクィクィがかなり人情に溢れた聖人に見えてしまう。しかし、神というのは森羅万象のヒエラルキーに於ける頂点に君臨する存在である。或いは、同じヒエラルキーに属していると評価する事が抑の誤りなのかも知れない。神とは神という別次元の枠組みに属する存在であり、神の子とヒトの子が形成するヒエラルキーとは切り離されているのかも知れない。
だからこそ、仮令神がこうした一般とかけ離れた無情的な価値観を抱いて神の子とヒトの子で構成される森羅万象を蔑ろにした所で、それは決して責める事は出来無い。寧ろ、神としての視座ではそれが普通であり、それを異常と考える神の子とヒトの子が異常なのかも知れない。それこそ、人間の童が純粋無垢な感情で羽虫の命を弄ぶ事と同じなのかも知れない。人間が神に、羽虫が万物に置き換わっただけで、その物事の本質は同一なのかも知れない。
故に、アルピナとしても神のその態度を責める事は出来無い。仮令凡ゆる悪魔を統括する悪魔公とは雖も、神を前にしてその地位は何ら価値を持たない。只《tあだ》のヒトの子よりは多少マシかも知れないが、しかし神の前では皆等しく創造されし万物である事には変わりないのだ。
それでも、かといってそのまま諦めて踵を返す訳にはいかない。抑、アルピナも神とは長い付き合いである。草創の108柱として神の手により直接創造されて以来の関係なのだ。それは下手な神の子同士の関係性よりもよっぽど長く深い。
故に、神がこの様な態度を取る事は初めから織り込み済みである。どうせこの神の事だから、とばかりに、彼女は神界に来ると決めた時から諦観の境地と冷めた眼差しでこの未来が到来する事を予見していた。
何より、こうなるのは初めての事では無かった。それは遥か以前、神龍大戦が開戦される直接的原因となったとある事件について神に問い質した時だった。その時も今回と変わらず彼女はここ神々の間に於いてセツナエルについてその真意を神に問い質した。しかし、その前回にしろこの今回にしろ神が取る態度には何ら変化は無かった。勿論、一言一句違わずと迄は言わないものの限り無くそれに近い位には似た様な道を辿っていた。
次回、第239話は5/24公開予定です。




