第236話:神と悪魔
そうしてそのまま無言で歩き続け、アルピナは神々の宮殿最奥部へと辿り着く。日当たりの良い長い廊下を抜けた先にあるそこには一際重厚な扉が待ち受けており、その奥が只ならぬ場所である事を如実に示していた。
その奥は神々の間。つまり、この宮殿内に於いて神がその生活を行っている正にその部屋。人間社会でいう所の玉座の間であり、龍社会に於ける皇龍の間に相当するものである。しかし、それとは明確に格が異なる領域であり、決して対等な品格だと考えてはならない。
そこだけは唯一、基本的に出入り自由なこの神々の宮殿に於いて立ち入りが制限されている場所。草創の108柱なら原則的に自由に出入り出来る様になってはいるが、しかし現悪魔公であるアルピナ及び皇龍ジルニアの代理として龍を統括している龍王ログホーツは元より、神の軍事力として神の直接的配下という役割も担う天使を統括する現天使長セツナエルですら気軽に立ち入る事は憚られる程。余程の目的意識が無い限り、態々《わざわざ》ここへ来ようとは中々思う事は出来無い。
それでも、今は躊躇している時ではない。ここへは相応の目的意識を持って来たのだ。過去の神龍大戦に始まり現在も尚続いている天使と悪魔の対立に終止符を打つという最大の壁を前にして、今更引き返す訳にはいかなかった。
抑、現在発生しているこの天使と悪魔の対立は元はと言えばアルピナとセツナエルが対立した事が直接的な原因なのだ。対立を生みだした当事者としての責任もある以上、アルピナにはここで踵を返す権利は持ち合わせていなかったし最後迄抗い続ける義務があるのだ。
アルピナは大きく息を零す。燦然と輝く金色の魔眼を何時に無く禍々しく輝かせると、彼女は猫の様に愛くるしい可憐な相好の裏に普段と変わらない冷徹な相好を翳す。その名を聞くだけで誰もが身を恐怖に震わせる事で有名な悪魔公アルピナが帰還した瞬間だった。
そして、アルピナはそのままドアノブに手を掛けると徐に回す。肩に掛けた男性的な漆黒色のロングコートが靡き、同じく靡いている漆黒色のミニスカートの下から覗く雪色の大腿が扇情的な色彩を醸し出されるのだった。
荘厳且つ重厚な扉が開かれ、その奥に広がる空間にアルピナは身を踏み込む。そこには、神々しく幻想的な大広間がその奥に広がっていた。上下左右前後の全てが鏡の様に磨かれた大理石で形成されており、壁に掛けられた燭台や天井から吊り下げられているシャンデリラが豪華絢爛な彩をより一層高めている。
足を踏み出す度にその踵音は幾重にも反響する。左右の壁の最高部に設えられたステンドグラス製の高窓から差し込まれる色取り取りの光が彼女を頭上から煌めかしく照らし出す。それは宛ら悪魔であり乍らも悪魔では無いかの様な神聖さを強要されているかの様でもあった。
しかし、アルピナはそんな事など一切気に留める事無く黙然と部屋の中央を縦断する。神々の間であり乍らそれらしき気配は何一つ感じられず、更に言えば彼女の魔眼にも何一つ魂の反応は映らない。それにも拘らず、常に何者かが此方を見張っているかの様な気配もまた同時に感じられる。或いは、この空間そのものがそんな気配を内包しているかの様でもあった。
軈て、アルピナは部屋の中央に迄辿り着く。背後にはつい先程彼女が入室してきた豪勢な扉が鎮座し、閉めた覚えは無いにも拘らず既に扉は閉ざされている。そして前方にはこれ迄歩いてきた距離と同等の長さの空間が広がり、その奥には一段上がった空間と美麗な玉座が鎮座していた。
しかし、そこを見ても誰もいない。神がいる訳でも無ければそれに相当する偶像がある訳でも無い。今この場には、アルピナを除けば羽虫一匹すらも存在していない。尤も、神界は神以外住んでいないので羽虫が侵入する余地は無いのだが。
兎も角、神々の間であり乍らもそこは耳に五月蠅い程の静謐が広がっていた。他の空間と同じく濃密な神力だけが空間を満たし、アルピナの微かな吐息や髪が靡く音、或いは衣服が擦れる音などが隠しきれる事無く反響するだけだった。
しかし、アルピナはそれに対して一切の動揺を見せない。神がいる筈の所に神がいないとなれば普通であれば多少の動揺を見せても何ら不思議では無い。憖神と付き合いが長い上に言ってしまえば実母に相当する相手なのだから、幾らアルピナと雖も精神に乱れがあっても誰も笑わないだろう。
それでもアルピナがこうして平然としていられる理由は唯一つ。これが何時もの事だからに他ならない。抑、神が実在するとは言ったが実態を伴ってそこに存在しているとは唯の一度も発言した事は無い。聞き手の勝手解釈による勘違いを振り翳されても、それは彼女にとって完全な有難迷惑に他ならないだろう。
故に、アルピナは存在するにも拘らず存在しない相手である神に対して微笑を浮かべる。相変わらずの態度と様子に対してくだらなさと面倒臭さを感じつつも、それでも余りムキにならず毅然とした態度を保ち続ける。彼女を悪魔足らしめる冷徹で傲岸不遜で傲慢で威風堂々とした態度を翳しつつ、彼女は虚空へと徐に語り掛ける。
「相変わらずだな、君は。そろそろワタシにその姿を晒してもらおうか、神よ? それとも、力尽くで君を引き摺り出した方が良いのか?」
静寂の空間に彼女の可憐な声色と冷徹で無感情な口調の言葉が幾重にも反響する。しかしそのエネルギーは軈て神力の中へと霧散したり大理石壁に吸収される事で溶けて消える。そして再びの静謐がその空間に帰還し、アルピナの周囲へと満ちる。
どれくらいの時間が経っただろうか。刹那程の時間の様でもあるし数秒の様でもある。或いは数分程経過したのかも知れないが、正確な時間はアルピナも数えていなかった。抑数えた所でそれを生かす場面は無いし、そんなくだらない事で脳の余計なリソースを割きたくなかった。
そして、漸くその時は訪れた。今その瞬間迄はアルピナしかいなかった筈のその空間。しかし、その次の瞬間にその前提は崩れ落ちる。瞬きにも満たない刹那程の時間でその部屋にいる人数は一柱から二柱へと増加する。
アルピナの背後、彼女から見て丁度死角となる位置に一柱の少年が立っている。その外見は人間と何ら変わり無く、或いはアルピナより若干若いかも知れない。丁度ベリーズ近郊で会ったあの栗毛の少年と変わらない年頃の様でもあった。
その少年は無言でその場に立ち尽くす。白を基調にしたその服は聖職者が纏う法衣の様でありつつも一般人が身に纏う普段着の様でもある。しかし、そんな一見普通な装いに反してその髪と瞳の色は鮮やかな金色に輝く事でその正体を暗に示していた。
彼は不安心を擽る様な微笑みを携えつつ手を後ろに組み、その無感情の眼差しを一心にアルピナの背中へと向けていた。この神聖不可侵な神々の間に於いて、来訪者であるアルピナを除けばここにいるのは唯一柱しか存在しない。彼こそ、この世の全ての生命の母にして時空の父である神そのものである。
創造を司るその神は、しかしそんな威厳に反した年頃の少年らしい飄々とした態度を崩す事は無い。人間社会に放り込んでも上手くやっていけそうな程に人畜無害な雰囲気を放つ傍ら、しかしアルピナを前にしてこれだけの慇懃無礼な態度を見せつけている。たったそれだけで彼の格の高さが窺い知れるというものだった。
「ふふんっ、冗談冗談。久し振りだね、アルピナちゃん。10,000年振りかな? 態々《わざわざ》神界迄来て如何したの?」
次回、第237話は5/22公開予定です。




