第232話:黄昏色の渦
そして、そんなスクーデリアとクィクィの微笑みを横目にしつつアルピナはクオンに言葉を返す。決して傲慢になる訳でも無ければ冷徹になる訳でも無く、現状に対して真摯に向き合った本心を彼女はそのまま言の葉に乗せたのだった。
「あぁ、君の言う通り今はその時では無い。また何れ、来るべき時が来た時にワタシの口から君に直接話すとしよう。それも含めて、嘗て結んだ約束だからな」
そうだろう、ジルニア?
表向きとしてクオンへ伝える言葉の最後に、アルピナは心中で己の想いを付け加える。それは、決して誰にも覗かれる事の無い深層心理の最奥部で生み出されたもの。今から約10,000年程前、殺害する直前に交わして以降一瞬たりとも忘れる事無く抱き続けてきたジルニアとの約束だった。
それは、決して反故にする訳にはいかない最優先事項。全てに於いて優先されるべき事物であり、仮令悪魔公としての業務が山積していようとも仮令他の悪魔から非難され様とも関係無いのだ。神龍大戦の根幹に迄影響を及ぼし、その上ヒトの子神の子を問わない凡ゆる生命の未来を左右する鍵にもなるかも知れないのだ。
しかしアルピナ自身、その約束が無事に成就するという保証は持っていない。アルピナのみならず、ジルニアですら同様に確証性を持ち兼ねる様な不透明な約束だった。一か八かの賭け同然の状況で結ばれた為に仕方無いのかも知れないが、今になって思えば随分と危険な橋を渡ろうとしたものだとついつい苦笑してしまう。
だが、今は違う。未だ目に見えた痕跡としてその約束が成就された訳では無いが、それでもアルピナは確信していた。嘗てジルニアと交わした約束が無事に実を結び、10,000年の時を経て現実として眼前に顕現しているのだ。
幸いにしてセツナエルには未だ知られていない。知られていないからこそ慎重に動くべきだろう。最終的にはどの道知られてしまうだろうが、それでも情報戦に於けるアドバンテージを有している内に可能な限り先行しておきたいのだ。
だからこそ、本来であればクオンと龍魂の欠片と遺剣を魔界の深奥に厳重に保管したかった。それでも、理性ではそれが正しいと分かっていても感情がそれを許さなかった。とても魔界の深奥に幽閉出来る程に彼女の心はジルニアに対して冷酷になり切れなかった。
その為、最大限の譲歩としてこの対応を取らざるを得なかったのだ。何時か自分の口から直接語るという贖罪で以て許してもらおうという何とも虫の良い話だが、かといって他に手段が無いのだから仕方無いという事にしておこう。
そういう訳で、アルピナは徐に立ち上がる。さて、と肩の長さの濡羽色の御髪と肩に掛けた季節外れで男性的なロングコート及びそれと同色の少女的なミニスカートを海風に靡かせ、彼女は空を一瞥する。宝石の様に美しく猫の様に大きな蒼玉色の瞳が燦然と輝き、澄み渡る様な青空を冷笑と共に睥睨した。
「時間も惜しい。早速だが出立するとしよう。ワタシがいない間の現場指揮はスクーデリア、君に一任する。悪魔公の権限を未だ持っているのだろう? 相応の働きは君にも担ってもらおう。それとも、まさかそれも含めてワタシにさせようとはしていないだろう?」
アルピナはスクーデリアの前に詰め寄る。両者が目鼻の距離で向かい合い、其々《それぞれ》が其々《それぞれ》らしさを多分に含んだ覇気を放出させる。知的且つ妖艶で王族の如き気品を持つスクーデリアに対して冷徹且つ傲慢でありつつも威風堂々たる凄みを有するアルピナ。その見た目も相まって非常に様になっている。
両者の間には宛ら大人と子供の様な身長差がある。一方は人間種全体の平均身長を上回りヒールを含めればクオンより背が高い172cm。もう一方は人間種を基準にしてもそれなりに小柄な154cm。外見だけ見れば非常に美麗乃至可憐な人畜無害な存在にしか見えない。
しかし彼女達からは、とてもその外見からは想定出来ない様な悪魔らしくありつつも恐ろしい迄の覇気と殺気が止めど無く流出していた。幾ら人通りが少ないとは雖も一応はベリーズのほぼ中心地だという事を忘れているのではないだろうか、とついつい訝しんでしまう。しかし、まさか彼女達がそんな無能感を曝け出す様な真似はしないだろう、という事で深く考えない事にするのだった。
「あら、残念ね。本気でそのつもりだったのだけれど……。まぁ、良いわ。この世界の事なら私達に任せなさい」
仕方無いわね、とでも言いたげに溜息を零しつつスクーデリアは諦める。最早何時もの事であり、今更彼女の勝手気まま振りにとやかく口を挟もうとは思わなかった。何なら、そうやって自分色に周囲を染め上げる彼女の態度こそが彼女の本質だと見做してすらいた。
そしてそのやり取りを間近で見守るクィクィもまた、スクーデリアと同じ様にアルピナに対して自信に満ちた微笑みを携える。こっちの事なら全部任せて、とでも言いたげのその緋黄色の瞳は、非常に頼り甲斐があると同時に彼女の天真爛漫さが如実に反映された良い例だった。
そんな二柱の幼馴染に対して有り難さと信頼の微笑みを返したアルピナは、自身の魂から魔力を湧出させる。これ迄入念の秘匿されていた魔力が溢出し、周囲の空気が一変する。宛ら南国から一気に極寒の大地迄叩き落されたかの様な変貌振りは、身体を制御する凡ゆる感覚器官を失調させる。
軈てアルピナの蒼玉色の瞳がスクーデリアと同じ金色へと染め変わり、悪魔達固有の瞳である魔眼が開かれる。肉眼に映らない凡ゆる力や魂を見通すその瞳は日輪の様に燦然と輝き、蒼玉色の時とはまた異なる美しさを秘めていた。
そして、アルピナは魂から止めど無く産生される魔力を右の指尖へと集約される。本来なら肉眼に映らない筈の魔力が肉眼にも映る程に濃密な黄昏色に輝き、アルピナの指を包み込む。そのまま、アルピナは魔力を迸らせる様に軽快なスナップフィンガーを鳴らした。
その音は空気を振動させて街の通りを駆け抜ける。喧騒に揉まれ乍らその音は軈て霧散し、すぐさま元通りな町景色が帰還した。しかし、そんな町の様子に反してアルピナの眼前だけは異なっていた。仮令魔力を持たない栗毛の少年でも認識出来る程に彼女の眼前の空気が異様に歪み、軈てガラスを割った時の様な空間の罅割れが疾走した。
それは、クオンの心を抉る光景。レス・シャムラでの惨劇を思い出させるには十分過ぎるだけの効力を有していた。思わず彼はそれから視線を外しそうになる。彼女に悪意が無いのは承知だが、如何してもその後に連続する師匠の死を思い返してしまう。
それでも、クオンはそんな本能的恐怖を理性で抑え込む。何れ乗り越えなければならないトラウマなのだから、今乗り越えてダメな理由は無い。それに今なら敵に襲われる危険性も無いし頼れる仲間も多い。故に、クオンは一瞬の躊躇いこそあれどもすぐさま平穏な精神環境を取り戻してその罅割れを見つめた。
軈て、その空間の亀裂は拡大していく。その後人間種が一人通れる程の大きさになった時、その罅割れは音を立てて崩壊する。奥からは、地獄に誘う死神の手が見える程に怪しげな黄昏色が渦巻いていた。それは健全な幻覚だが、そう思っても無理無い程にはその渦は恐ろしかった。
しかし、そんな恐怖を打ち消す様にクオンの脳裏に浮上するのは単純な疑問。つい先程迄の会話で獲得した神の子やその周囲に関する知識を真っ向から叩き潰してくる様な眼前の光景に対して、彼は素直な疑問を呈するのだった。
次回、大233話は5/18公開予定です。




