第219話:情勢と動向
しかし、その代わりとして新たに彼の価値観の内部には神の子的視座が形成されつつある様だった。そして、それによって紡がれる生命としての上位存在から見た客観的思考が社会情勢を考慮した正解の提案を自然と導き出しているのかも知れなかった。
何れにせよ、彼の無意識が導き出したその提案は現在彼らの周囲を取り巻いている情勢をそれなりに正確に穿いているものと言えるだろう。別に正確に導き出せていたからと言って何かしらの褒美や称賛がある訳でも無いし、彼自身もそんなものは大して期待しても無ければ望んでもいなかったが。それでも、ある程度の自己肯定感や自己満足の足しにはなるかも知れない。そういう意味では、全く以て無駄と掃き捨てる必要も無いだろう。
尤も、現状の彼らを取り巻く情勢というものは今この瞬間にも大きく様変わりし続けている。その上、悪魔としての視座と魔王としての視座と国民としての視座——正確には国家を構成する人民では無いが、その領土内で生活しているという意味では事実上の国民としての振る舞いも有していると言える——が複雑に絡み合っている。そして絡み合うそれらが相互に作用を与え続ける事により、変化というのは多角的且つ立体的な広がりを見せていたのだ。
しかし、態々《わざわざ》提案した張本人であるクオン自身が思うのは如何かと思うが、彼は別に大して危機感を抱いていなかった。確かに情勢は様変わりしているし、現時点では不透明な謎がそれなりに残されている。天使の件にしろ人間の動向にしろ、それは変わらない。
それでも、これ迄の旅路で得た凡ゆる経験値が彼の不安心を洗い流してくれていた。慢心かと問われればキッパリと否定出来ないかも知れないし、恐らくその通りな面も多少なりとも含まれているだろう。それでも、そう思っても仕方無いだけの心強さを彼は身に沁みて抱いているのだ。
アルピナにしろスクーデリアにしろクィクィにしろ他の悪魔達にしろ、クオンの周囲を取り囲む無数の味方はそれ程迄に強大な信頼と実力を有していた。どれだけ先行き不明瞭で不安定な地盤に立たされているとは雖も、この程度なら必ずや打破出来る筈だと確信出来るのだ。
しかし、仮令事実として強大な力を有していようとも人間の常識を超越する不可思議で超常の力を複数所有していようとも、彼女達だって出来ない事はそれなりにある。彼女達はあくまでも神の子と呼ばれる存在なだけであって、決して神そのものではないのだ。
確かにクオンは神と直接相見えた覚えは無い為に確信は出来無いが、これ迄の旅路で得た知見からもその事に対して猜疑心を抱く事は無い。勿論彼女達を軽んじている訳では無いが、それでも彼女より更に上位の存在がいても今更驚く事は無いだけである。
兎も角、そういう非万能な事情もあってか仮令彼女達が集まってその知恵を振り絞った所で如何しても正確に予測出来ない事柄がある。それは、今後の動向の予定を立てる上で如何しても知っておく必要があるという点では非常に厄介な代物だった。
それは人間、取り分け国の枢要側の動向に関してだった。現在アルピナ達は魔王として彼ら人間の枢要的立場の者から周知されている。人間という種族を根底から脅かす絶対的な脅威に対抗する事を目的とした者が国の枢要には大勢存在しているのだ。
そんな中、これだけの騒ぎを起こしてしまった。当然彼ら人間側の枢要が気付かない筈が無いだろう。それ処か、人間達の魂の動向から察するに状況を把握する為の先遣隊が少数乍らも蠢動している始末だった。
尤も、それはアルピナを始めとする魔王達全員が気付いている。というのも、魔眼を開けばこの国の領土程度なら掌上の事の様に容易に把握出来るのだ。尤も、魔眼で把握出来る最大距離はその魔眼の出力や当人の実力によって大きく左右されるのだが。
アルピナやスクーデリアといった草創の108柱は別格として、クィクィやセナの様な旧時代の悪魔なら主な棲息地域が神界や蒼穹だった事もあってか異様な程に広い。更に言えば、世界が創造されて以降の世代且つ新生神の子であるルルシエであっても、最大迄出力を上げればこの地界全体なら一度に把握出来るのだ。
何より、悪魔ですらないクオンやアルバートであっても頑張って意識を集中させて全魔力を魔眼に集約させればこの星全体なら辛うじて把握出来る程度の力だけは確保されている。尚、クオンの場合は龍魔眼を開けば多少は余裕があったりする。尤も、そこ迄出力を上げて魔眼を開かなければならない場面などまず訪れる事は無いが。
取り敢えず、それによってヒトの子の魂は全て把握出来るし普通とは異なる動きを見せる様であればそれに気付かない筈が無いのだ。何ら危険性が無い為に放置していたが、それ次第で今後の命運が大きく分かれるだろう事は確実だった。
ならば一体何が問題かというと、それは英雄の動向だった。人類文明に脅威を齎す強大な外敵である魔王に対抗する為の存在、即ち人間種の救世主とでも形容出来る存在であるその英雄がどの様に動くかによって、今後のアルピナ達の動向も柔軟に変化させざるを得ないのだ。
それでも、唯一の救いは英雄が味方である事だろう。確かに彼らは表向きとしては未だ英雄として真面目に活動してくれているが、その裏では悪魔乃至魔王としての活動を絶やしていない。人間種に絆された挙句の裏切り等という愚行の可能性を欠片も感じさせないだけの信頼性だけは、依然として彼らからは齎されている。
故に、彼ら英雄による情報の横流しさえある限りは人間側の動向も然して大きな問題にはなり得ない。仮に正面衝突になったとしてもレインザード攻防戦の再現になるだけであって結果は変わらないのだ。その上、仮に正面衝突を避けて策を弄そうとも人間の手で出来る事は人間の考える枠組みから逸脱する事は無い。そういう点から考えても脅威には到底なり得ないのだ。
それでも、数少ない懸念事項を挙げるとすれば天使の動きだろう。それも現在アルピナ達が対立しているレムリエル達では無く、王都に潜伏している天使達の方である。目的こそ同一であるものの、人間達を利用して暗躍してくる事を考えれば其方の方が俄然として厄介だろう。
「そうだな。確かにレムリエル達には未だ色々と謎が多い以上、此方としても何かしらの対策を用意するか謎を解明しておく必要があるだろう。しかし、かといって態々《わざわざ》慌てる必要もまた無いだろう。時間は幾らでもあるのだからな。何より、英雄側がどの様な動向を見せるかが今後の動きを決定する上で必要不可欠だ。王城の魂の動きからして恐らく何らかの作戦会議でもしているのだろうが、それの結果を聞いてからにするべきだろう」
やれやれ、とばかりにアルピナは片腰に手を当てて小さく溜息を零す。その威風堂々且つ傲岸不遜な佇まいを修飾する様に、肩の長さの濡羽色の髪が柔らかく仄かに靡く事でその少女的な可愛らしさが増強される。海側から吹き込む温かな風が季節や気温にそぐわない漆黒のロングコートを靡かせ、その奥で同様に靡く漆黒のスカートの下から覗く雪色の大腿が眩く輝いた。
それは一見して大して思い悩んでいない気楽かつ冷静な相好。悪魔としての冷徹さや神の子としての余裕に満ち溢れた普段の彼女そのものだった。出会ったばかりで未だ詳細な事情を知らない少年は当然として、それ程長い付き合いでは無いとは雖もそれなりに気心知れたクオンでもそう感じさせてくれる。
次回、第2210話は5/5 21時頃公開予定です。




