第189話:対価の奉献と友情による信用
当然、アルピナもそれは承知している。その上、彼のその発言には一欠片の悪意も含まれていない事もまた承知している。故に、彼に対して怒りを始めとする凡ゆる感情の変化を向ける事は無い。しかしそれでも、一瞬ながら反応してしまったのだ。あまりに深く魂に刻み込まれた約束と悔恨は、彼女をして完璧に感情を統制しきれないほどに根深い問題だったのだ。
それでも、刹那ほどの時間でそれを完璧に抑え込んだのは流石だろう。肌に深く突き刺さるほどの激情は嘘の様に晴れ上がり、つい先程までの傲岸不遜で傲慢且つ冷徹な威風堂々とした佇まいを取り戻していた。
しかし、セナが発したあの一言の一体何処にそれほど反応してしまう要素があったのだろうか。生憎クオンには皆目見当がつかなかった。これまでの彼女の態度や直隠しにしている内容から考察するに恐らくジルニアかその周辺に関わる事なのだろう、と彼は朧気乍らに察する程度の事しか出来なかった。
果たして、ジルニアとアルピナの間に何があったのだろうか。10,000年というクオンにしてみれば気が遠くなる様な、しかしアルピナ達神の子からしてみれば大した事も無い時間を遡った過去に、何を悔恨として残してきたのだろうか。
そして同時に、何故それをアルピナ達は自分に教えてくれないのだろうか、とクオンは訝しがる。何時も適当に逸らかされるその秘密に何か特別な意味があるのだろうか、という疑問が湧出するが、かといって話したくない事を無理に話させる訳にはいかないだろう。
そして、アルピナ達もまたそれを彼に話さない理由が存在した。と言っても、話して何か不都合があるという訳ではない。ただ単純にアルピナがそうしたいというだけの事であり、周りもその意見を尊重しているだけに過ぎないのだ。
それは、嘗ての約束。アルピナがたった一度だけ交わした、悪魔という種の根幹を成す〝契約〟に基づかない〝約束〟。対価の奉献ではなく友情による信用に全てを委ねたそれは、悪魔としての矜持を真っ向から否定するもの。
10,000年越しに叶えられるであろう約束だからこそ、それは事前に伝えられて納得するのではなく達成して初めて実感する方が刺激的であり感動的だろう。アルピナは、そんなちょっとした遊び心を最大限享受させるべく、その約束をクオンには語ろうとしないのだ。
しかし、そんな事を露と知らないクオンは、眼前で一瞬だけ圧し掛かった重い緊張感の裏に隠された真相に到達する事は出来なかった。到底あり得ないその真相は、現実の範疇でしか事を考える術を持たない彼では一生賭けても到達する事の無い領域だったのだ。
「ほぅ。暫く会わない内に随分と言う様になったな、セナ。しかし、それもまた事実だ。否定はしない。確かに、ワタシにはあの子達の仲を引き裂く権利は無い。過去の柵に囚われている今のワタシではな。尤も、例えそうではなかったとしてもあの子達の仲を態々《わざわざ》引き裂こうとはしなかっただろう。それをしなければならないほどに危険な状況でもなければ、ワタシの性格も非情ではない」
さて、とアルピナはアルバート達から視線を外しつつ凭れ掛かっていた壁から離れる。そしてそのまま、彼女はコートのポケットに手を入れたまま徐に歩き出す。その歩みはコツコツ、と重厚感あるブーツの踵音をその狭い路地に反響させる。
そして、彼女はそのままクオンのすぐ脇を通り抜ける様に歩き去ろうとしつつ、その最中で一度立ち止まる。行くぞ、とクオン、スクーデリア、クィクィに対して静かに呼び掛けると彼女は一人足早に進んで行く。それはまるで何かから逃げる様でもあり、同時にアルバートとルルシエの様子に対する満足感と安心感を抱けた為の様でもあった。何れにせよ、決してセナの発言に対して憤懣を抱いた為ではないという事は確実だった。
内容の真偽は扨措き、抑彼女が他者の発言に対して怒りを向けるのは友人を侮辱乃至愚弄された時に限られる。それ以外であれば、例え自分自身を嘲笑されようとも感情を荒らげる事は無い。それは、その様な些末事に一つ一つ感情を揺らがせるのは効率が悪いし単純に面倒だ、という彼女なりの考えに基づいているらしい。
兎も角、一見してセナの発言に腹を立てて立ち去ろうとしている様にしか見えないこの光景も、それは全て気のせいとして片付けられるという事。スクーデリアもクィクィもセナも、当然悪魔達は皆承知している為、今更それに対して困惑する事は無い。例に洩れず、クオンだけが気まずい空気を個人的な勝手解釈で読み間違えているだけだった。
「ああ、そうだった。セナ、あの子達に伝言だ。と、言っても大した内容ではないがな。神の子及びヒトの子としての道理を踏み外さない限りは、その全てをワタシの権限で保障しよう。そう伝えておけ」
然りげ無い極自然体のウィンクは、可憐な彼女をより一層可憐にするもの。心臓がキュッと締め付けられてしまいそうなほどにその仕草は魅力で満ち溢れており、無関係の第三者が誰一人として見ていなかったのが幸いだっただろう。
仮に衆目に見られていたら、ルルシエのそれに匹敵するほどに人間達の注目の的になっていたかもしれない。異性としての恋心や下心か、或いは同性としての魅了や憧憬か。その何れにせよ、面倒になっていた事は確実だろう。
そうなってしまえば、とても観察乃至見守りを兼ねた観光どころではなくなってしまう。自由を制限され、目標を見失い、或いは隠れて見守りつつ面白がっていた事が露呈しかねない。例えバレたところで心象が失墜する事は無いだろうが、それでもあまり良い印象は受けないだろう。
尤も、隠れて観察している時点で印象云々を語れる義理は無いだろうという思いが噴出しかねないが。しかし、バレない限りに於いてグレーラインは全て白なのだ。結果論へと話は飛躍するが、バレなければ良いのだ。そうすれば、誰かが不幸になる事も無く全ての事が円満に恙なく運ばれる。
果たして、信頼と信用を最重要とする悪魔がそんな適当な事で良いのだろうか。信頼と信用に基づく相互理解で締結する契約を本分とする悪魔だからこそ、他者を裏切ったり騙したりする事は避けるべきなのではないのだろうか、と何時かクオンは呆れた事があった。
しかし、彼女達悪魔の様子を見る限り大丈夫なのだろう。或いは、悪魔同士だからこそ多少の事は黙認しても問題無いのかもしれない。種族名から齎される印象だけで判断すれば、悪魔こそ裏切りと騙し合いに特化した種族であり天使こそ清純で正々堂々としていそうなもの。しかし実態はそんな正確に二分される単純なものではなく、意外と人間臭い要素を多く兼ね備えた曖昧な種族の様だった。
抑として、この尾行乃至観察はクィクィの発案で行われたもの。そして基を辿れば、それはアルピナの考えを起点として発案されたものだ。
アルピナもクィクィも全悪魔の中でも指折りの大悪魔として名を馳せている。草創の108柱として神により創造され全悪魔の頂点に君臨するアルピナは元より、クィクィもその稚く可愛らしく童顔な外見からは想像付き難いもののかなり古い悪魔。それこそ、現在生きている全悪魔で彼女より古い悪魔はアルピナを除けばスクーデリアだけであり、神界で復活を待っている悪魔を加味しても上から数えた方が早いほどだ。
そんな彼女達の意見や思考を基にして行われているこの行動を、一体誰が拒否できるだろうか。悪魔は天使と異なり明確な上下関係を持たないとはいえども、階級の差を全く無視できるほどに厚顔無恥ではない。スクーデリアだけは口先だけの文句を言っていたかもしれないが、言ったところで意味がないと分かり切っているからこそ、半ば諦観の言葉を口にした様なものだった。
次回、第190話は4/5 21時頃公開予定です




