第170話:愛情関係
「いや、お前が人目に付く所で顔を出してくるなんて珍しいからな。まぁ、幸い近くに人はいないみたいだから構わないとは思うがな。……それで、態々顔を出してまで何の用だ?」
周囲を軽く一瞥しつつ、アルバートは溜息を零しながら問いかける。決して彼女を愚弄するつもりはないが、唐突過ぎる彼女の行動に対して無意識的に出た反応がそれだっただけに過ぎない。尤も、アルバートも彼女にだけは普段から下手に畏まることなく気楽に話しているため、いつも通りと言ってしまえばそれだけの話でしかない。
そして、彼が周囲を一瞥したのも怪しまれないかという不安に由来する警戒心に加えて悪魔に魂を売ってしまったことに対する罪悪感が僅かに含まれていたのかもしれない。周囲に嘘をついてまで英雄として称賛されている自分を受け入れている、そんな自分に対する嫌悪感とせめてもの贖罪へと姿を変えた結果なのかもしれない。
しかし、今更それを後悔したところで何かが変わる訳ではない。過ぎ去りし時に悔いをぶつけたところで今や未来が変わる訳がないのだ。大切なのは過去に何をしたのかではなく、今これから何をするかである。罪を犯したと思うのであれば罪を犯したなりの行動をすべきであり、そうでないと思うのであればそれに囚われることなく今を生きればいいのである。
そもそも、セナやルルシエが悪魔だと証明する術を人間達は何一つとして持たない。そして、アルバートがスクーデリアと契約を結んだ証拠も同様である。ヒトの子という何一つ特別な力を有さない被管理者程度では神の子が有する非現実的な超常の力に介入することは能わないのだ。
その為、彼が心に宿している心配や不安は全て徒労に終わる未来しか待ち受けていないとほぼ断言できる。唯一例外があるとすれば天使の介入だけだが、それもよほどのことがない限り対処可能。尤も、そのよほどのことが起きかねない状況に置かれているのが懸念事項ではあるのだが。
それでも、最終手段としてアルピナの力を借りればどうにかなる可能性が残されている。その上、そもそもまだ何も起きていないのである。起きてもいない事柄に態々思い悩む必要もなければ、最悪何か起きてから考えてもどうにかなるのだ。
しかし、偶然は準備の出来ていない者を助けない、とも言われる。その為、 最低限の備えだけはしておくべきかもしれない。自分達では到底かなわない相手が蠢動していようとも、何かしらできることは隠されているものなのだ。それを模索する程度であればすることも厭うべきではないだろう。
アルバートは鋸壁に覆い被さる様にして身体を預ける。眼下に広がる街並みを視界全体に収め、冷めやらない熱気と喧騒を受け止める。そして、崖に沿って吹きあがる上昇気流を顔いっぱいに受け止めながら小さく溜息を零した。
そんな彼の仕草に微笑みを浮かべつつ、ルルシエは凝り固まった身体を解す様に大きく身体を伸ばした。同時に、言語化できない声を口から漏らしつつ西にやや傾いた日輪から注がれる陽光を目一杯浴びる。眩しさで目を細めつつ、彼女は色彩豊かな地界の風景を堪能するように瞳を輝かせる。
「ううん。ずっと影の中に潜んでるのも暇だから、ちょっとした気分転換でもしようと思っただけ。それに、地界に降りるのって初めてだから色々楽しみたいじゃん?」
ルルシエはアルバートの影から身体を伸ばし、翠藍色の瞳を輝かせて鋸壁の狭間から王都の喧騒を見下ろす。一応、アルバートの視界を共有することで外の様子は全て把握できているのだが、やはり自分の眼で見るのはまた違った快感を得られるものだ。
柔和で温暖な風が吹き、複雑ながらも可憐に結われた翠藍色の御髪がそれに乗って穏やかに靡いた。だらりと力の抜けた態度をしているが、しかしその可憐さは失われる事ない。寧ろ、燦々と照る日輪の下で煌びやかな雪色に輝いて眩しいほどだった。
アルバートは、そんな彼女の仕草と相貌に僅かに見惚れつつも、しかし人間と悪魔という種族差を思い出してその心を排する。ヒトの子と神の子の間に友情が成立することがあれども愛情が成立することはないのだ。
それは、神の子側からの視座だけでなくヒトの子側の視座から見ても同様である。姿形に全く差異がないために勘違いを抱き易いものの、天使や悪魔といった神の子は人間から見たら完全な別種族なのだ。決して差別思想や嫌悪感がある訳ではなく、純粋な種族違いによる恋愛対象からの除外である。
いうなれば犬が猫に対して慕情を抱かない様なものである。犬は犬同士、猫は猫同士でのみ愛情関係が成立するのであり、犬と猫が夫婦関係にならないからと言ってそれを差別だと断罪したり嫌悪感を抱いたりしないのと同様である。
それでも、どうしても見た目が変わらないおかげで一瞬だけ惚れそうになってしまう。そのたびに彼は自分自身にルルシエは悪魔だと言い聞かせて心の平穏を保っているのだが、言い換えればそれほどまでにルルシエは可憐で美麗な外見をしているということである。
彼女を悪魔だと知っているアルバートですらこうなのだから、彼女を悪魔と知らない他の人間達から見れば、彼女は傾城傾国の美女同然の扱いを受けることだろう。彼女自身に国を傾けるような意思はなくとも、周囲の人間が己の勝手解釈を振りかざしてしまい、結果的に国が傾く事は容易に想像できてしまう。
そもそも、ルルシエに限らず悪魔は総じて美男美女が多いようにアルバートは思っている。アルピナもスクーデリアもカーネリアことクィクィも、そしてセナも含めて総じて醜悪とは対極に位置しているとすら思えてしまう。
加えて、彼ら彼女らは髪と瞳にそれぞれ固有の色を持っている。アルピナの蒼玉色や、スクーデリアの鈍色、クィクィの緋黄色といったそれは、どれもが鮮やかで艶やかで美麗なのだ。決してアルバートの主観的な意見に留まらず、彼ら彼女らを目撃した誰もが同様の事を一度は考えている。
それこそ、悪魔ではなく魔王としての認識しか持たないアエラやエフェメラも、レインザード攻防戦が終結した後の情報整理の際に何度か口に出していたほどだ。同じ女性のしかも敵対する相手であろうともそうした感想が出るのだから、それはよほどの美麗さなのだろう。
尤も、アルバートはルルシエのそうした色や風貌については美麗だと思って一瞬惚れそうになっても特別な恋愛感情を抱いて盲目になることはなかった。彼女や妻がいる訳ではないが、ルルシエとは恋愛関係よりも純粋な友情の方が親しみやすくて楽だと感じているだけの事でしかなかった。
その上、神が定めた規則を破って恋愛関係を持った際の報復の方が何倍も恐ろしかった。ルルシエにすら敵わない程度の力しか持たないからこそ、アルピナより更に上位の存在からの罰は想像する事すらできないほどの恐ろしさしかなかったのだ。
尚、全悪魔を統括する立場にあるアルピナからは、ある程度の許しが出ている。あくまでも子を為すことがダメなだけであって、そこに至らなければ問題ないということらしい。しかし、一個人に対する特別な感情を抱かない神の子と特別な関係に至る事はほぼ不可能であり、過去にそうした恋愛関係が成立した例は一つも存在しない。それは悪魔に限った話ではなく全神の子に共通する事だった。
それでも彼女がそうした助言を加えたのは、彼女の意志ではなく完全なるクィクィの助言だった。ヒトの子を誰よりも知悉している彼女らしい悪戯色の遊び心だった。
次回、第171話は3/17 21時頃公開予定です。




