第168話:英雄像
そうして王都は一層の歓喜と驚喜に満ち溢れていく。国王陛下から直々に称賛されて褒美を賜った正真正銘の英雄などという存在は、彼らにとって何よりもの御馳走だった。老若男女問わず、誰もがぜひ一目でもその御姿を拝見しようと躍起になって王城の入り口付近に入り乱れる。統率力を亡失した烏合の衆と化した彼ら彼女らの喧騒によってかつてない盛り上がりを見せる王都は、かつてない経済効果を生み出すこととなった。
そんな姿を王城の一角から見下ろす英雄達は、言語化することも難しい複雑な感情で心を満たされた。今彼らがいるのは、ブルームという名を付けられた城から直接連絡する庭園のような屋外広場。プレラハル王国の古い言葉で夢を意味する名を冠するそこは、まるで空中庭園を想起させるほどに完璧なまでの手入れが行き届いており国の豊かさをそのまま具現化させたかのようだった。
周囲をグルリと取り囲む歩廊に転落防止用として設けられた鋸壁の狭間から城下町を見下ろしつつ、やれやれ、とばかりに二人は揃って溜息を零した。謁見が終わり自由時間を与えられた彼らは、城の構造把握と緊張感からの解放を兼ねてその場にやってきたのだ。
「随分騒がしいな。まさかこの距離でも喧騒が聞こえるとは思わなかった」
悪魔という人ならざる存在としての価値観から生み出される純粋な感想を零すセナ。しかし、これほどの喧騒は人間の価値観で考えても十分驚愕できるほどだった。
本来、悪魔の価値観と人間の価値観は思いの外乖離している。姿形が類似し、会話も成立し、共同生活を営む事すら可能なほどの親近感を生み出せることを考慮すれば、それは異常なほどの乖離具合だと言えるだろう。勿論、こうして英雄として人間社会に潜伏しているセナの価値観であろうとも同様である。
人間と同じ価値観で同じ視点に立って物事を考えられる悪魔は誰か、と問われたらそれは精々クィクィ程度だろう。そんな彼女でも意外なところで人間の常識から逸脱することがあるのだから、セナとしても笑えない事実だった。これから先の英雄としての生活を考慮すれば一刻も早く人間の価値観に慣れる必要があった。
いつか近いうちにアルバートかクィクィに指導してもらうことすら、セナは考慮に入れていた。そもそも、彼は第二次神龍大戦の初期に死亡しているため下手な悪魔よりよっぽどヒトの子と関わる機会が少なかった。初めて地界に降りたルルシエほどではなかったが、彼女を笑えないほどに彼は対人処女だった。
その為、眼下に広がる城下町の光景は彼の感情を大きく揺さぶる。レインザード攻防戦でもこれほど感情が動かされた瞬間はなかっただろうと言えるほどには、彼の心情は揺れ動いていた。別に嫌という訳ではなかったが、言語化できない敗北感を無意識の深奥に抱いているかのようだった。
それには恐らく、ヒトの子は神の子に管理される存在であるという固定観念が彼の価値観の根底に土台として根付いているからだろう。勿論、それは事実であるため彼の考え方が悪いわけではない。どんな神の子も価値観の根底にはそれがあるのだから今更問題立てる必要もない。あのクィクィですらそうなのだからなおの事だろう。
そもそも、神の子がヒトの子を管理するのは紛れもない事実。神がヒトの子を創造するにあたって神の子に与えた義務であり権利でもあるのだ。今更その価値観を放棄する事は、即ち神に対する反逆行為と同義である。あの鷹揚な性格をした神共ならそうそう怒ることはないだろう、とセナを含むどの神の子も考えているが、しかしだからといって自らの上位者に叛逆するつもりはなかった。する必要性もないのだから、無理にリスクを負う必要性が見当たらなかった。
故に、彼は大人しく他者の助力で人間の価値観を学ぼうと思い立ったのだ。裏を返せば、それほどまでにクィクィは人間の価値観を理解できているということになる。流石は全神の子で並ぶ者はいないと称されるほどの人間好きなだけのことはある。恐らく彼女ならつい先ほどの国王との謁見も見事な所作で熟していただろうという確信すら持てるのだ。
事実、クィクィなら例え相手が王族級であろうとも襤褸を出すことなく人間のフリをして遣り過ごすことができる。遥か昔、未だプレラハル王国が建国されていない時代にまで遡ると、クィクィは時折この地界の何処かの星にある何処かの国の王族級の相手とすらも交流を持っていたことがあるのだ。
セナも仄聞程度でしか聞いたことがないため仔細は不明だが、いずれにせよ彼女はそれほどの存在なのだから礼儀作法を習って損はないだろう。
「そうですね。これじゃあ、町に降りるのも一苦労しそうですよ」
セナの言葉に同情するように、アルバートもまた城下町の喧騒を見下ろしながらまるで独り言のように呟いた。人間として生まれ、人間として暮らし、人間としての価値観で生きる彼にも眼下の光景にはただただ圧倒される事しか出来なかった。これまで一度たりとも見たことがないような喧騒は、頭にガンガンと響いて止まなかった。苦悶の相好を微かに浮かべ、城下町を埋め尽くする彼ら彼女らに対して何とも言い難い複雑な感情を向ける。
素直に喜んで良いものだろうか、と彼は心中で一人疑問符を浮かべる。今の彼は、この喧騒を一身に受けて問題ないだけの功績を残した英雄として称賛を受けて問題ないだろう。しかし、これまで庶民として生き、魔獣の角を裏社会に横流しして金銭を稼いできた経歴がそれを制止しようとする。
その上、彼の本性は英雄を僭称する悪魔との契約者である。今もこうして眼下から齎される様々な歓声を発する者達が脳裏に思い描く人物像とは到底程度遠い人格と経歴を兼ね備えた人物でしかないのは、彼自身が一番知悉していることだった。
しかし、世間はそれを知ることはない。仮に知る機会があったとしても、それを悪徳記事だと一方的に断じる信者によって情報の発信源が批判の目に晒されて攻撃されることだろう。
そして、今の彼の影には一人の少女が潜んでいる。翠藍色の瞳と髪を持つその細身な外見はアルバートとほぼ同世代。一見してただの人間にしか見えないが、或いはそうであって欲しいと思ってしまうほどの美貌を兼ね備えている。
そんな彼女は悪魔としてはかなり若い約10,000年前の生まれ。男爵の階級に属しているにも拘わらず、文・武・芸のいずれにおいても如何なるヒトの子を一蹴できるほどの能力は最低限備わっている。当然、アルバートですら今の彼女には到底適うことはなく、レインザード攻防戦終結以降、時折隙を見つけては勝負を挑んでいるのだが一度たりとも勝てたことはない。それどころか、まともに相手にされることがないほどには軽くあしらわれることがお約束だった。
それでも彼は英雄として公に認められた存在である。それも人間社会でつくられた名ばかりの名誉職としての英雄ではなく、神が創造した世のシステムとしての英雄としてである。悪魔公がそれを証明していることからも、彼がそれに到達していることは確実である。
それにも拘らずな現状は、彼の自信を粉々に打ち砕くには十分すぎる。或いは、仮初の自信を抱くスキすら与えられなかったのかもしれない。それほどまでに、英雄という地位は悪魔に対して何ら優位性を持たなかったのだ。
しかし、それは却って好都合だったのかもしれない。自身の力を過信して有頂天になり、その結果人間としての道理から足を踏み外すという最悪の未来を回避できたのだ。彼の性格上その可能性が限りなく低かったとしても、そう思うことで彼はやや強引に心を保ち続ける。
次回、第169話は3/15 21時頃公開予定です。




