第149話:お目当てのもの
眼下に広がる傷だらけの町を、倒錯する平和的な海風が静かに吹き抜ける。海鳥が可憐なハミングを奏で、渡り鳥が何処かへと飛び去った。戦闘の気配が消失した町には避難していた人間達が顔を覗かせ、ボロボロになった町を前に悲観の相好を総じて浮かべることしか出来なかった。中には膝から崩れ落ちて涙を流す者も存在し、その不条理で非合理的な厄災に対する恨み辛みを鬱積するのだった。
それを上空から眺め見るクオンだったが、しかしどうすることもできない。悪魔と人間、その両方の心を知る立場であるだけに、その複雑な心境に苛まれる苦悩は一入だった。しかし、無常に流れる感情の波を黙然と受け流す事しか出来なかった。
そんな彼の姿は、地上にいる人間の瞳には映らない。魔魂感霧の効果は対象を別人に見せかけるものでしかないため、見上げればそこにいると気づくことは可能。しかし、眼前に広がる悲惨な光景から与えられる衝撃に、もはや周囲の状況を気にかける余裕は存在していなかったのだ。
つまり、偶然により彼らの存在はベリーズの住民に勘付かれることはなかったのだ。しかし、そんなことは露にも思っていない彼らは、眼下の人間に対して注意を配ることなくその場に浮かび続ける。
「行ったか」
「無理に追いかける必要もないだろう。いずれ会える。それより、クィクィ達と合流しよう。スクーデリアは先に向かっている」
そこで初めて、アルピナは眼下に広がる破壊された町を見る。そしてそこに戻りつつある人間達の存在に気が付いた。やれやれ、とばかりに溜息を零すと、金色の魔眼を開いてクオンを見つめた。
「認識阻害があるとはいえ、このまま降りては人間達に怪しまれるだろう」
〈隠身魔膜〉
パチンッ、とアルピナは指を鳴らす。軽快な音とともに彼女の魂が放出され、それはクオンとアルピナの身体を覆うように展開される。薄く、しかし一切の裂目も綻びもないしなやかで煌びやかなヴェールのようなそれは、地界と龍脈を隔てる膜を彷彿とさせるもの。
「何をする気だ?」
「姿を隠す魔法だ。これにより、私達の姿は人間達の瞳には映らない。人目に映らない場所を探すより、この方が手早いだろう?」
「そんな魔法があるのならもっとほかの場面でも使いようがあったんじゃないか?」
頭上に疑問符を浮かべつつ、クオンは問いかける。これまでのカルス・アムラやレインザードで経験した一連の事件において、任意に姿を消すことができたら楽をできた場面がどれだけあった事か。結果的にこうして五体満足で生存しているが、不運が重なればこうはなっていなかったかもしれない。
しかし、それが却って戦力の向上に繋がったともいえるだけに、何とももどかしい感情が渦巻いてしまう。それでも、それができるのなら早めに知りたかったというのがクオンの本音だった。
「生憎、これは肉眼における視認を欺く効果しかない。聖眼、魔眼、龍眼といった神の子の瞳を欺くことができない以上、これまでの旅路において役立つ機会はそう多くなかったからな」
意外と不便なんだな、とクオンは納得し苦笑する。ヒトの子の価値観が抜け切れていないクオンは、魔法に対する印象として万能感が最も強く出てしまう。しかし、神の子の価値観でみれば魔法の万能感はそれほど強いものではなく、状況次第では不便になるものも多いのだ。
そうしている間に、アルピナによる魔法は完了する。主観的には不明だが、客観的に二柱は完全に透明化される。空気の揺らぎのような違和感すら生じさせない完璧な透明化は、物理法則を超越した神の子の力の賜物だろう。物理法則の影響下から逸脱することができないヒトの子の知能と技術では、例え幾星霜の時間をかけても決してなしえることができない超技術。誰もが流涎して欲するその力を手にしつつも、クオンはその優越感を実感することはなかった。
さて、とアルピナは小さく息を吐いた眼下の町を見下ろす。金色の魔眼を凝らし、ヒトの子の波の中で集結するスクーデリア達の魂を捕捉する。浮かび上がるその存在感に微笑を浮かべると、魔眼を閉じつつクオンに語り掛ける。僅かに吊り上がった猫のように大きな瞳の中でサファイアブルーの瞳が輝き、彼女の可憐かつ威風堂々とした佇まいが日輪の下で鮮やかに輝いた。
「無駄話もそこそこに降りるとしよう。あまり遅くなってしまってはクィクィに怒られてしまう」
「そうだな」
ハハハッ、と笑いつつクオンは頷くと、二柱は捕捉した仲間の魂を目指してゆっくりと降下していくのだった。
天使と悪魔の小競り合いによる損害を被った人間達。自宅が倒壊し、道路が抉れ、街路樹がなぎ倒されている悲惨な光景。地震や台風といった自然災害が過ぎ去った後を彷彿とさせる光景を前に、人間達は己の無力感に嘆く事しか出来ない。或いは涙を流して慟哭し、眼前の光景が夢幻の一端であることを希う者も少なからず存在するかもしれない。
いずれにせよ、神の子同時の小競り合いで生じたあらゆる被害を人間達は避けることはできない。自然災害を前に人間の努力が無であるのと同じく、神の子の力の前でヒトの子の力は存在しないのと同義となるのだ。
そんな人間達の群れの中、悲嘆の感情が渦巻くその直中にあってただ一つだけ存在する異なる感情を抱く魂。フードを目深にかぶり、ローブで身を包むその姿からはそれが男か女かは判別できない。身長から推測するに恐らく男だろうが、しかし誰もそのようなことは気にしない。
その男は、悲嘆にくれる人間達の相好を小道の影から黙然と見つめる。栗色の瞳を薄暗く輝かせ、含蓄ある眼光でその群衆を見つめていた。その心では何を考えているのか、或いはどのような感情を抱いているのか、それは誰にも読み取れない。魂の深奥で厳重に秘匿された彼の思考回路は、いかなる読心術をもってしても解読することは非常に困難である。
そんな彼の背後から小さな足音が響く。軽くしなやかな足取りは、しかし周囲の眼を気にする警戒心を併せ含んでいる。その会合を他者に決して悟られてはならないという強い意志は、その足音の主のみならずフードの男も抱く共通意志。それほどまでに、両者の関係性は秘匿されていなければならないのだ。
「随分と派手な歓迎会だったね、レムリエル?」
「そう? でも、偶にはああいうのもいいんじゃない? それに相手はあのアルピナ公と契約を結んでるのよ? 油断してたらこっちが負けちゃうじゃん」
それよりさ、とレムリエルは笑う。大胆不敵で可憐なそれは、首の後ろで一つに纏めた藤色の長髪と相まって、彼女の知的で美麗な風貌をより一層妖艶なものへと押し上げる。
男の耳元に口を近づけ、吐息の温かすら知覚できてしまう。その距離感は、官能的な香りを感じさせるようでどこか無邪気な意地悪を感じさせる絶妙なもの。
しかし、両者の間に男女の友情は存在しない。神の子である彼らにはヒトの子のような性欲は存在せず、それに起因する一個人への特別な感情を抱くことはない。そのため、男はレムリエルの囁きをただ黙然と聞くことしかしなかった。
「見つけたよ、お目当てのもの」
ふふっ、と笑うレムリエルは男から顔を離す。藤色の長髪が柔和に揺れ、チロリ、と小さく突き出す舌は彼女の可憐さとあどけなさを強調する。そんな彼女の言葉を聞き、男は待ってましたとばかりに微笑を浮かべるのだった。
「そっか。まさかアルピナ公のところに保護されてるなんてね。偶然とはいえ手間が省けてよかったんじゃない?」
「それで、バルエル様? 次は何しよっか?」
次回、第150話は2/24 21時頃公開予定です。




