第148話:停戦
迸出する聖力は龍魔眼では上手く捉えられないが、その朧気な感覚でも相当の力が込められていると理解できる。或いは、これまで戦ってきたシャルエルやルシエルに負けずとも劣らないほどの力が込められているのではとすら思ってしまうほどだった。
〈聖裂斬〉
振り下ろされるレムリエルの聖剣。それは、クオンにとって致命の一撃となること確実な力が込められたもの。急所かつ防御するには時間的猶予が不足している部位を的確に狙った一撃が迫る。
それは客観的に見れば超高速の斬撃かもしれないが、クオンの瞳にはそれは非常にゆっくりにしか見えなかった。タキサイキア現象と呼ばれる、危機的状況で出現し、動きがスローモーションに感じられる現象によるものだった。
くそッ、間に合わねぇ‼
迎撃するには遅すぎる。その為、少しでも受けるダメージを減らして生き延びようとクオンは身体を動かした。僅かな時間しかないため、ヒトの子の身体機能で動ける量はごく僅か。加えて、咄嗟の状況だったために身体が思うように動いてくれなかった。それでも、クオンは一縷の希望を賭けてそれをする事しか出来なかった。
そして、クオンの体感にして数秒後、客観的には僅かコンマ数秒の後、レムリエルの聖剣は振り下ろされる。神聖な輝きを身に纏った聖剣に込められた濃密な聖力が、クオンの身体を両断しようとその凶刃を輝かせる。
しかし、レムリエルは瞠目する。剣身を握り受け止めるのは一柱の少女。どれだけ力を込めて押そうが引こうが、全く動かなかった。にも拘らず、その少女はまるで涼しい顔で聖剣を握り、可憐で冷徹な相好でレムリエルを睥睨していた。
「悪いが、クオンを殺されるわけにはいかないからな」
「アルピナ公……!」
「アルピナ……」
レムリエルとクオンは同時に呟く。近づいてくる気配すら感じられなかった。戦闘の衝撃をまるで意に返さないとばかりに佇む彼女の姿に、クオンは改めて信頼を抱くと共にその驚異的な底力に畏怖した。
猫のように大きく、僅かに吊り上がった瞳の中で燦然と輝くのは金色の魔眼。サファイアブルーのメッシュが入った濡れ羽色の髪は肩程に伸び、男性的な漆黒のコートと女性的な漆黒のミニスカートが風に乗って柔らに靡く。膝丈のブーツとスカートの間から覗く雪色の大腿は扇情的な香りを漂わせ、しかし全体から漂う帝王のような圧倒的な覇気は周囲を威圧する。
レムリエルは額に冷汗を滲出させ、聖剣を彼女の手から取り戻そうと力を籠める。しかし、どれだけ力を込めても聖剣は微動だにしない。悪戯に体力と気力が消費されるだけだった。
「アルピナ公、アザリエル達はどうしたの?」
「気になるのであれば、その聖眼で確認すればいい。尤も、するまでもないことだがな」
フッ、と冷笑を浮かべるアルピナ。金色の魔眼が輝き、高圧的な覇気が周囲を無差別に襲撃する。味方であるはずのクオンですら無意識的に身構えてしまう。しかし、それがアルピナが放出するものだと理解して漸く力を抜く。レムリエルも同様に、アルピナの覇気に対して硬直したように身構える。そして彼女の言葉通りに聖眼でベリーズ全体を探知してアザリエル達天使の魂を捜索する。
これは……。
ベリーズ全体を探知し終わり、レムリエルは瞠目する。一瞬だけ自分の探知ミスかもしれないと疑ってしまったが、それがミスではないと確信した。
「そう……全滅させたのね。尤も、アルピナ公とスクーデリア侯が一緒なら仕方ないことね」
アルピナとスクーデリアの実力を知悉しているが故の納得。草創の時代より皇龍と戦い続けて身に付けた戦闘力は、セツナエルを除くあらゆる天使では敵わない。智天使であるシャルエル達ですら、神龍大戦時は必ず複数でしか挑もうとしなかったことからもその実力は折り紙付きだ。
「ああ、天使は我々悪魔と異なり生き残りがそれなりにいるようだからな。遠慮なく神界へ送らせてもらった。主天使及び力天使級としてはなかなかな実力者だったが、しかし我々へ挑むには少々力不足だったようだ」
「そうみたいね。それより、その手を離してもらってもいいかな? アルピナ公が掴んでるせいで、霧散させることもできないんだけど」
話を脇道に逸らすように、レムリエルはそれとなく願う。ああ、とアルピナが素直に手を離すと両者は互いに距離を取った。レムリエルは聖剣を霧散させ、アルピナは金色の魔眼をサファイアブルーの瞳に戻す。クオンもまたアルピナと肩を並べる様に位置取ると、龍魔眼を閉じて瞳を休ませる。
暫くの無言が続く。重苦しい凪が駆け抜け、しかし気の抜けない時間が経過する。時間にして僅か数秒、しかし体感的にはそれ以上に長い時間が流れたと錯覚させられてしまう。それは強者特有の駆け引きなのか、或いは別の思惑か。そのどちらとも断定できかねる空気がピリピリと肌を焼き、それぞれの魂から湧出する聖力と魔力が静かに折り重なる。
「さぁ、次はワタシが相手になろう。どこからでもかかって来るがいい」
腕を組み、海風に髪と衣服の裾を靡かせながらアルピナは挑発する。威風堂々とも傲岸不遜ともとれる口調と声色は、可憐な風貌を持つ彼女を悪魔足らしめる覇気を生み出す。対してレムリエルは、藤色の長髪とノームコアな衣服を風に乗せ、天使らしい神聖で清楚な雰囲気を空気に溶け込ませるようにして佇んでいる。
双方ともに武器を手に持たず、聖眼や魔眼を宿さず、まるで平時を思わせる殺気の無さを晒していた。そんな中、クオンだけが独り警戒心を剥き出しにして双方を交互に見つめつつ気持ちを張りつめていた。
「いや、やめておこうかな。これ以上戦っても利益なんてないし、アルピナ公に勝てるとは思えないからね」
「ほぅ。相変わらず、君は退くべき時に退けるだけの頭だけはしっかりとしているようだな」
感心の相好を浮かべながら呟くアルピナは、魂から迸出する殺気を抑え込む。戦闘の終了を決定づけるそれを知覚し、クオンも全身に張り詰める緊張感を解く。それでも、最低限の警戒心だけは保持したまま、琥珀色の瞳でレムリエルの動向には注意を払い続けた。
レムリエルは微笑む。その思わせぶりな口元には、何らかの意図が隠されているかのようだったが、しかしクオンもアルピナもその真意に気付くことはできない。漠然とした疑問だけが脳裏を駆け抜け、微かな不安が魂の奥底から滲出するだけだった。
それでも、アルピナは普段と変わらない相好を崩さない。冷徹な微笑みを携えて片手を腰に当てるその佇まいは、年頃の少女の如き可憐さと人間達が想像する魔王としての格を両立させるもの。レムリエルの不明瞭な思惑を前にしても一切の焦燥感や苛立ちを抱くことはなかった。
「それに、お目当てのものも確認できたし、戦果として上出来かな? まぁ、結構な数の天使を神界に送られちゃったみたいだから、完璧とまでは言えないけどね」
「お目当て?」
一体何の事だ、とクオンは頭上に疑問符を浮かべる。しかし、レムリエルはクオンの質問に答えることなく笑顔で手を振る。苛立たしいほどに清々しい笑顔は、直前まで命を懸けた死闘を繰り広げていたとは思えない平和的なもの。文字通り天使として存在するに相応しい聖純さと美麗さを併せ含んでいた。
陽光に照らされるその様は、地界に存在するあらゆる芸術作品を凌駕すると言って過言ではないだろう。これが敵同士ではなかったら、それを見た誰もが一方通行の恋心を抱くことは確実といって過言ではない。それほどまでに、その立ち振る舞いは洗練されていた。
「それじゃあアルピナ公、それにクオン君……だっけ? また会おうね」
バイバイ、と一声かけてレムリエルは飛び去る。暁闇色の渦を構築すると、その先へと姿を消すのだった。その場にはクオンとアルピナだけが残された。
次回、第149話は2/23 21時頃公開予定です。