第136話:魔魂感霧
やっぱり妙だな。レインザードで龍眼が発現して以降、アルピナの態度が変わった気がする。
嫌というわけではないが、しかしこれまで味わってきた傲岸不遜な態度とは方向性が違うために違和感が拭いきれない。いずれ慣れるだろうとは思っているものの、それまでの微妙な期間が生む違和感はどれだけ工夫を凝らそうとも避けられないのだ。それでも、とクオンは理性で抑え込む。喫緊の問題には直接関係しないと判断し、根本的解決を後回しにすることで表面的には解決したことにした。
「拒否したところで代替案がある訳でもないからな。それに、スクーデリアの案は信頼できる。もとから否定するつもりはない」
「そういう訳だ、スクーデリア。早速始めよう」
わかったわ、とスクーデリアは了承する。鈍色の長髪を掻き上げ、魂の深奥から魔力を湧出させる。金色に輝く魔眼がそれぞれの魂を詳らかにする。各個が持つ固有の色の染まった魂はそれぞれ相異なった表情を見せているため、それぞれにかけるべき認識阻害の魔法も微妙な差異を必要とする。僅かなズレが魔法の不十分性を誘引し、場合によっては看破されるきっかけとなり得るのだ。
尤もこの場にいるのはアルピナ一行を除けば全てヒトの子。よほど粗末な認識阻害であろうともそれを認識することは不可能だ。それでも何時何処に天使が潜伏しているかは全く持って不明である。そのため、寝首を掻く機会を得物を前にした猛獣のように流涎して待ち望んでいるか不明瞭な現時点では、最大限の警戒心をもって最大限の予防策を練って損はないだろう。
「あの……魔法って……?」
何一つ知識を持たず、何が何やらサッパリといった具合で困惑する少年は、スクーデリアを中心にそれぞれの顔を一瞥する。不安と困惑に染まった栗色の瞳を忙しなく動かし続け、これから何が起こるのか不明な恐怖心と警戒心に身を強張らせる。
そっか、とクィクィはそんな彼の態度を見て得心がいったように緋黄色の瞳を見開く。
「ボク達が悪魔だってことも知らないんだもんね」
「悪魔?」
疑問に疑問が重なる少年は、首をかしげてクィクィを見つめる。何処まで教えていいのか、そしてどうやって説明すればいいのか。困惑したクィクィは視線を右往左往させて口吃る。そして、話の核心には触れず、しかし嘘をつかない様に当たり障りのない言葉でお茶を濁す。
「えーっと……話せば長くなると思うから、今の所はボク達の言葉の通りだと思っててくれる? スクーデリアお姉ちゃんが今からする事だって、絶対に安全だからさ」
大丈夫だよ、と優しく語り掛けるクィクィの可憐な声色。それはアルピナやスクーデリアと同じ悪魔でありながらも、決して悪魔だと思わせられないほどに優しく可愛らしいもの。世間一般に広く流通する天使のステレオタイプに近く、少年はその言葉に信用と信頼を不思議と預けてしまう。
「……わかり……ました」
途切れ途切れになりながらも、しかしその声色と瞳はしっかりとしており、迷いは比較的小さめのようだった。そんな彼の様子を見て、クィクィは一安心とばかりに微笑むのだった。
そもそも悪魔は契約により人間の心に取り入ることを主とするため、天使が行う天羽の楔とは異なり支配力を持たない。そのためクィクィに限らず、悪魔の言葉や魂の色は、ヒトの子の信用と信頼に対して肯定的に作用する本能的作用が搭載されているのかもしれない。それは悪魔の頂点であるアルピナですら知らないのだが、それほどまでに悪魔の言葉はヒトの子を誘惑しやすいのだ。
それはクオンとアルピナの契約の差異も同様であり、いくら死の危機に瀕している状況だったとはいえアルピナの傲岸不遜な態度にクオンが素直に従ったのは、生き延びることに必死だったこともあるが、こうした根源的要素が幾分か関与しているかもしれない。今となってはそれを確認する術はないが、十分あり得ない話ではないだろう。
勿論、それがこれまでのやり取りや今後に影響を及ぼすわけではないが、クィクィと少年のやり取りを遠巻きに眺めつつ、クオンは神の子の神秘的要素に思いを馳せるのだった。
瞬く間に全ての魂に宿る全ての特徴を見出したスクーデリアは、自身の魔力をクオン達全員の魂に纏わせる。それはあくまでも認識阻害の魔法の為に必要な魔力であるため、悪魔達が行う契約徒とは異なり魂そのものに作用することはない。ただ魂の客観的認識にのみ作用する特殊な霧のようなものだ。
〈魔魂感霧〉
魂を覆うスクーデリアの魔力が黄昏色に輝く。それはやがて濃霧へと変質し、肉体の何処かに浮かぶ魂を抱擁する。温かくもあり冷たくもある不思議な感覚が彼らの体内から湧き上がり、やがてそれは収まる。
「終わったわ。力を抜いて楽にしなさい」
ふぅ、と小さく息を吐いたスクーデリアは語り掛ける。それは人強い阻害の魔法を初めて体験するクオンと、そもそも魔法の存在を知らない少年に対して向けられた言葉である。彼女と同じ悪魔であるアルピナとクィクィは当然の事乍らよく知悉した技術であるため、初めから全身の筋緊張を高めることなくリラックスしていた。
クオンは、改めてアルピナ達をそれぞれ一瞥する。認識阻害の魔法とやらの実態をよく知らないために行われる、興味関心に基づく確認作業のようなものだ。果たして本当に認識阻害は作用しているのだろうか、仮にそうだとして客観的にはどのようにみられるのだろうか。主観的には何ら違いを感じないが故の心情であり、僅かばかりの高揚感すら感じられるようだった。
しかし、彼のそんな期待に反して、現実は非情である。クオンの琥珀色の瞳でも金色の龍魔眼でも、その認識阻害による影響を感じることはできなかった。
「どうしたのかしら、クオン?」
「いや、その認識阻害とやらの効果をイマイチ感じなくてな」
疑問符を頭上に浮かべ、確認を取る様にクオンはスクーデリアに尋ねる。決して彼女の実力を疑っているわけではないが、しかしどうしても疑問が残って仕方ないのだ。
そんな彼の疑問に対し、スクーデリアは決して慌てることなく答える。予めその疑問が湧出することが分かっていたかのような落ち着き様であり、そのあまりにも滑らかな受け答えには美しさすら感じられる。
「さすがに、私達同士では阻害されないようにしているわ。そうでもしないと面倒でしょう?」
「ああ、そうだったのか。態々すまないな」
気にするほどでもないわ、とスクーデリアはクオンの謝罪を軽く受け流しつつ、和らな微笑を浮かべる。氷のように冷たくあれども、しかしその内奥に潜む温かみに感謝しつつ、クオンは静かに龍魔眼を閉じた。
そんな二人のやり取りを横目で流しつつ、アルピナは早速とばかりに門へ向かって歩き始める。すぐ近くで波打つ海と同じ鮮やかで深い青色に染まった瞳を輝かせつつ、スクーデリアの認識阻害に全幅の信頼を預けて進んでいた。
「さて、そろそろ行くとしよう」
我先に、と進んでいくアルピナを追いかけるように、クオン達も足早に動き出す。門に近づくにつれ漏れ聞こえる喧騒は大きくなり、その先に広がる平和色に染まった町の様子が脳裏に浮かび上がる。潮騒に修飾された港町に対する空想は一層膨れ上がる。
どんな町かな、と興味関心に胸を高鳴らせるクィクィの言葉に同意しつつ、アルピナ達は門を管理する衛兵に近づく。衛兵はただの人間。それは魔眼でいれば一目瞭然であり、レインザードでの一件のように天使の精神支配が入り込んでいる様子もない。完全なる部外者であり、現時点では関与させる必要もなければ排除する必要もなかった。




