第135話:町の外
魔獣を率いてレインザードを襲撃した謎の男女……魔王、か。なかなかどうして的を得た呼称だな。
白色の紙面に浮かぶ黒色の文字は、ここプレラハル王国で用いられている公用文字。植物由来の染料で印刷されたそれをゆっくりと眺め、彼はその内容を脳に刷り込んでいく。
しかし、何度読んでもその内容が変わることはない。そこに書かれた内容はただ一つであり、公的機関によって作成されたことから嘘偽りである確率はゼロ。到底信じられない様な奇想天外な内容だったが、不思議と彼の心は得心がいった。
男は、小さく息を吐くと改めてフードを深くかぶり直す。金色に輝く聖眼で北方の青空を睥睨し、探知できなければならないものが探知できない事実を認識する。それと同時に、可能なら認識したくなかった力が近づいているという事実もまた探知してしまう。それは、天使にとって相性上有利であるにも拘わらずその枠組みから逸脱した力を有する悪魔の根源だった。
「やはりアルピナ公……それにスクーデリア侯にクィクィも一緒か……こいつは参ったな」
同じ神の子としての顔見知りであるだけに、否応にでも気づいてしまう事実。それは、彼女達三柱の悪魔が揃い踏みしている現状ではいくら相性上有利な天使であろうとも勝てる可能性が限りなくゼロだということ。仮にクィクィ一柱だけだとすれば相応の犠牲を払いさえすれば抑え込めるかもしれない。しかし、スクーデリアに対して同様の結果を残せる確率は奇跡に近く、アルピナに至っては天地が逆転しようとも不可能である。それは理性ではなく心が認識している事実であり、努力では到底覆しようがないことは明々白々だった。
さて、どうしたものか……。あれが逃げ出したおかげで、やることが山積みだな。
あれ、とは彼が大切に保管していたもの。愛着があったわけではないが、しかし手元を離れることは何よりもあってはならない事だと肝に銘じていた。レインザードの一件で混乱しているスキを突かれて逃げ出してしまい、丁度捜索していたところだったのだ。ある程度の防犯対策は講じているが、しかしそれも完ぺきと言い切れる自信はない。その為、可能な限り早めに解決しておきたい案件なのだ。
それに、と彼は心中でとある事実に危惧する。それはアルピナが人間と契約結び、かつその人間が龍の力をその身に宿しているという話だった。龍の力に悪魔の力が組み合わさっているという事実は嘗ての神龍大戦と全く同じ構図であり、たとえそれが人間であろうとも決して油断ならない相手であることを教示してくれていた。
確か……クオン・アルフェイン……だったか? 確か王都のすぐ近くにある村の工房にそんな名前の鍛冶見習いがいたような気がするが……同一人物か? まぁ、知ったところで何の解決にもなりそうにないな。
さて、と彼は金色の瞳を閉じて新聞を閉じる。懐に収めて壁から背中を離すと大通りへ向き直る。心中に燻る不安の種と相反する陽気で平和的な喧騒が耳に届く。苛立ちを覚える訳ではないが、微かな不快感をどこかに感じているような気がしてならない。
大通りにでた彼は、人込みをかき分けるように道を進む。肩と肩がぶつかり、幾度となく重心バランスが崩れそうになるが、しかしそんなことを気にせずに彼は進み続ける。
髪と同じ栗色の瞳が陽光を受けて時重厚感ある輝きを放ち、彼の心に宿る覚悟と決意をより強固なものへと変質させていた。天使に定められた九階級の内上から二番目、即ちシャルエルやルシエルと同じ智天使の一柱に数えられるバルエルは、魂から聖力を零出させながら焔の如き熱と揺らめきを帯びる覚悟で笑みを浮かべた。
明日にはアルピナ達もここベリーズに到着するだろう。久しぶりの再会だ。手厚い歓迎の支度が必要だな。
翌日の昼下がり、アルピナ、クオン、スクーデリア、クィクィ、そして記憶を失った人間の少年は、港町ベリーズを防衛する高い壁の前にいた。それは海からの侵略にまるで意味をなさないが、それでもないよりはましだということで建設された経緯がある。潮風を受け続けたおかげもあり、他の町のそれと比較してかなり風化されてしまっているようだが、しかし壁としての機能に支障はない。
そんな壁の一ヶ所、街道の突き当りに位置する場所に設けられた門には人々が並び、通行に関わる諸々の手続きを受けていた。聖獣に襲撃される危険性がありながらそんな悠長なことをしていていいのか、と批判を受けることがままあるのだが、しかし町の安全のためにはしなければならない事もまた事実。どちらの意見も誤りであるとは言い切れない板挟みの環境に置かれた兵士達の瞳は疲れ切り、しかし職務の為だと理性に言い聞かせる。
当然、アルピナ達も他の人間達に倣って手続きと検査を受ける列に近づく。それはレインザードでも同様だったため、とりわけ不満がある訳ではない。しかし、かといって素直に受ける訳にはいかない事情があるのだ。
先日のレインザードの一件でアルピナ達は魔王として人間達に周知された。アルバートとセナの協力の元実行された茶番によって一度は討伐したとみなされたものの、しかし死体が見つからないという理由で一時的な駆逐と発表されたのだ。勿論、アルバートとセナの英雄としての称号はその功績によって認められたものであるため撤回されることはなかった。しかし、アルピナ達に対する警戒心が薄れることがなかったこともまた事実なのだ。
「それじゃあ、どうするの? 飛び越える?」
それが通常通りの行動だと言わんばかりに提案するクィクィ。純粋な緋黄色の瞳に一切の悪意は感じられず、それが本心かどうかは別として彼女なりの考えだったのだろう。しかし、彼女の提案が素直に実行されることはなかった。不可能ではないが、実行が難しい理由が存在するのだ。
「いや、それは止めておこう。我々だけならそれでもいいが、その人間を連れて飛び越えるのはリスクが大きい。何より、バルエルが何らかの歓迎の準備をしているだろう。それを無碍にするわけにはいかないからな」
純粋な好奇心から生まれる碧眼を輝かせながら、アルピナは冷たい笑顔を浮かべる。僅かに吊り上がった猫のように大きな瞳によって強調された可憐な相貌が陽光を受けて輝き、年頃の少女と何ら変わらない快活さを見せてくれる。
しかし、その内面に渦巻く冷徹で冷酷な覚悟を、クオンは見逃さない。必要とあればヒトの子の命程度なら容易に切り捨てられる神の子としての価値観。それはヒトの子から見れば天災と何ら変わらない狂気であり、決して相成れない感情なのだ。
故に、クオンは彼女の思考と判断が人間社会の道理から逸脱しない様に祈りつつも、それを未然に防ごうと言葉を紡ぐ。力では決して敵わないとわかっているからこその行動であり、この不条理な相手に抗うことができる唯一の術なのだ。
「だが、どうする? 変装でもするか?」
「それでもいいが……」
アルピナは口吃りつつスクーデリアを見やる。魔力操作においてアルピナのそれを上回る彼女に対する全幅の信頼感に由来する、アルピナなりの敬意だった。しかし、言い換えればそれは体の良い丸投げであり、当然スクーデリアも気付いている。彼女は、そんなアルピナの言動に対して溜息を零す。やれやれ、と言いたげなその言動は憤懣に由来するものではなく、長い過去で幾度となく見て来たが故の懐かしさに由来するものだった。
「はいはい、仕方ないわね。それなら、認識阻害の魔法でもかけておくわ。私達を魔王だと認識した場合のみ作用し、その認識を上書きして無害化する。そんなところかしら?」
「ああ、上出来だ。そうだろう、クオン?」
チラリ、とクオンを一瞥しつつ確認を取るアルピナ。確認を取る必要性を全く感じないクオンだったが、しかし無視するわけにはいかず無言で頷く。