第134話:新聞
そして両者は徐に動き出す。本気で相手を殺そうとはしていないが、しかし他の神の子では容易に近づけないほどの覇気が両者の魂から溢出して衝突する。それは幾星霜の過去から繰り返されてきた遊びの延長線であり、二柱にしてみればちょっとした挨拶のようなものでしかない。それでも、二柱以外にしてみれば到底挨拶とは言い切れないほどの損害を被らざるを得ない。
持てる力を全て自身の防御に回したとしても、これだけの至近距離ということもあり一切の余裕が浮かばない。唯一スクーデリアだけが二柱の間に立ち塞がって戦いを未然に阻止することができた。
「止めなさい、二柱とも。ここを破壊するつもりか?」
氷の女王のような冷たい眼光で二柱を交互に睥睨するスクーデリア。金色の魔眼から放出される魔力を前に、ジルニアもアルピナも揃って萎縮させられてしまう。単純な実力では決して負けないとわかっていながらも、繰り返し怒られ続けた経験が二柱の魂に不可視の鎌を突き立てる。逆らってはならない、と本能が警鐘を鳴らし、二柱は舌打ちを零しながらも素直に覇気を収める。まったく、とスクーデリアは彼らを一瞥しつつ溜息を零して魔力の放出を止めた。
世話が焼けるわね、相変わらず。
彼女の眼前では、戦う気力を亡失した二柱が仲睦まじく交わりあっている。空中に浮かび上がったアルピナがジルニアの鼻先に肘を置き、すぐ眼前で光る琥珀色の瞳に対して可憐な微笑みを投映している。にこやかで純粋なその姿は、つい先ほどまで戦いに飢えていた獣とは思えないほどに愛らしい印象を与えてくる。行動に一貫性がなさすぎると言われそうなほどの変貌ぶりに、スクーデリアは慣れた感覚で優しく見守っていた。
相変わらず仲がいいわね、あの二柱。妬いてしまいそうよ。
同じ悪魔でありかつ幼馴染であるという事実が音を立てて崩れ落ちる。疎外感に近い感情が魂の中で循環し増幅するが、しかし最愛の友人に負の感情を抱きたくない理性がそれを霧散させる。グッと堪えた彼女は、徐に二柱へと歩み寄るのだった。
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フフッ、と一柱思い出したように笑みを零し、スクーデリアは改めて眼前の現実に意識を呼び戻す。自然豊かな草原の直中、すぐ近くには未舗装の街道が南北に貫通している。柔らで温かな風が南方から吹き抜け、潮騒の香りが鼻腔を満たしてくれる。雲一つなく澄み渡る青空の下では数匹の鳥達が群れをなして飛行し、風を受けてさらに高く舞い上がった。
背中から腰に至るスクーデリアの鈍色の長髪が風に乗って大きく靡き、淡色のドレスワンピースの裾もまた同様に揺れる。平原の直中にあって異色な風貌をしていたが、しかしそう感じさせないのは偏に彼女の気品ある佇まいと雰囲気が為せるものだろう。その静謐な雰囲気をより確かなものにしている金色の瞳は、すぐ近くで一見して仲睦まじく戯れ合っているように見えるアルピナとクオンに向けられていた。
しかし、スクーデリアの瞳にはとてもそうとは思えなかった。未だ冷徹さと傲岸不遜さが残るもののこれまでと比較して僅かばかり可憐な仕草が見立つようになったアルピナと、それに対して僅かな気味悪さと違和感を覚えるクオンによる一方通行のコミュニケーションのようだった。それは信頼と友情に紐付けされた彼女の本心であり、彼女がジルニアに向けていたそれと大差ないほどに深いものだった。
ジルニアを思い出すわ。あれはまだ龍だったから何とも思わなかったけど、ヒトの子を相手に同じ仕草をしているのを見るのはまだ少し違和感があるわね。
しかし、スクーデリアはその戯れ合いを止めようとは思わなかった。それは、いずれ見慣れるであろうという期待感から来るものでもあったが、何よりそれ以上の深い理由が秘められていた。しかし、僅かな手掛かりすら悟られてはいけないことを自覚している彼女は、アルピナですら除くことができないほどに秘匿された深層心理の中にそれを隠す。いずれ来るであろうその時を待ち望むように、幾重にも鍵が駆けられた。
そうしてスクーデリアが一人心中で思いを馳せている頃、漸く落ち着いたアルピナとクオンは改めて会話を戻す。
「そろそろ出発するぞ。クィクィもどうやらあの少年の手当てが終わったようだ」
クオンは、すぐ近くで仲睦まじく談笑を広げているクィクィと少年を一瞥しつつ発言する。クオン自身気付いていなかったが、どうやらあの暴君に襲撃された際にけがをしていないかクィクィが確認してくれていたようだ。目立った外傷がないことから同じ人間であるクオンですら大して気にも留めていなかったが、異種族であるクィクィがそれに気づくということは、それだけ彼女が人間を大切にしているということの証左と受け取っても申し分ない。
「ああ。そうだな」
そして漸く彼らは歩みを再開する。悪魔が三柱、悪魔と契約を結んだ人間が一人、記憶を失った人間が一人。異色としか形容できない組み合わせの集団は、高く日が昇る草原を南下する。地平の先に薄ら浮かぶ港町ベリーズを目標値に定め、緩徐ながらも確実に進んでいく。人間の歩行速度に合わせたそれは、悪魔にとっては珍しくクオンにとっては懐かしい感覚であり、それが却って心地よく感じられるのだった。
【輝皇暦1657年7月9日 プレラハル王国ベリーズ】
港町ベリーズ。潮騒が聴覚と嗅覚を刺激し、プレラハル王国内でありながら他の町や村とは一風変わった雰囲気を纏っている。陽気な喧騒が絶えず、どれだけ深刻な悩みも海風とともに吹き飛んでしまいそうな気がしてしまいそうだった。
海鳥の歌声が絶えず響き渡り、色鮮やかな海中生物に彩られた海岸は波打つことで絶えずその姿を移ろわせている。二度と同じ姿を見せない諸行無常の移ろいを浮かべる大洋は、人間の小ささと世の中の壮大さを教えてくれているかのようだった。
そんなベリーズの中央を貫通する大通りは、大勢の人間達で賑わっている。漁業が盛んなこの町では漁で釣り上げた大小さまざまな鮮魚が市場に並び、それを求めて大勢の住民や商人が押し寄せるのが恒例行事となっている。老若男女問わず様々な喧騒が忙しなく行き交い、誰もが最高の商品を得ようと躍起になっていた。
魔獣被害とは縁遠いように感じられる光景。これはこの町で普段見られる光景だが、同時に先日のレインザードの一件で立ち込める曇天を吹き払おうとする反転した感情かもしれない。恐怖を打破するために自らの精神すらも騙くらかそうとする狂気じみた感情の発露は、何も知らない人からすれば何も感じないが、それを知っている者からすれば恐怖を感じてしまう。
そんな喧騒が飛び交く大通りと接続する脇道では、一人の男が家の外壁に身を預けて小さく息を零す。フードを目深にかぶり、その手には紙新聞が握られていた。原料不足により紙が貴重でいまだ羊皮紙に頼っているこの国で紙製の新聞が発行されるということは、それだけ重要な情報が記載されているということであり、彼もまた非常に苦労してそれを手に入れたのだ。
誰かに見つかってしまえば奪われかねない、とばかりに陰鬱とした裏路地に身を隠した彼は周囲の目を気にするように左右を一瞥する。金色に光る双眼が周囲の安全を確認すると、改めてその新聞を開く。一度目を通したことがあるので内容は知悉しているのだが、内容が内容だけに何度でも確認せざるを得ないのだ。
「レインザード……ルシーがいる町がそんな名前だったな……」
チッ、と舌打ちを零した彼は、頭上を見上げて屋根と屋根の間からチラリと覗く青空を睥睨する。気に食わないほどに平和な青空に憤りを覚え、しかしどうしようもない現実を前に理性でそれを抑え込む。深い呼吸で心を整理し、もう一度手元の新聞に視線を戻した。
次回、第135話は2/9 21時頃公開予定です。