第130話:記憶喪失
一方、そんな神妙な雰囲気と心情の交叉が繰り広げられているとは露と知らないアルピナだったが、そんな彼女の側へクオン達は徐に歩み寄る。
輪廻と転生に関する暢気で陽気な会話に参加していなかったアルピナ。悪魔公という全悪魔の頂点に立つ彼女こそ、本来であれば輪廻と転生に関する全権を管理する存在として説明役には相応しかったかもしれない。しかし、今の彼女にとってクオンが輪廻と転生の概念を理解することは些末事でしかない。それより、眼前に座り込む少年の方が数段も優先度が高い対象だった。
青い瞳を金色の魔眼に染め変え、魂からは彼女固有の周波数を奏でる魔力が湧出される。冷酷で、冷徹で、しかし同時に可憐で美麗な覇気が空間を刺激する。悪魔を悪魔足らしめる、種の上位者としての威厳と尊厳によって構成されたそれは、例えそのつもりがなくてもヒトの子の恐怖心を煽る。理性ではなく本能で察知される種としての根源的上下関係に対する服従は、ヒトの子の劣等感と屈辱感を舐めるには十分すぎた。ましてや悪魔公という、一部の神の子ですら首を下げてしまうほどの圧倒的上位者。一介のヒトの子では目を合わせることすら困難だろう。
少年は、歯を鳴らして恐怖に震える。本能に由来するその防御反応は、自分が何故それほどまでに恐怖しているのかを教えてくれなかった。無意識に生じるその防御反応に、ただ黙然と従う事しか出来なかった。それでも、少年はその行動が誤りだと思えなかった。何故そうなのかは理解できなくても、本能がそれを正しい行動だと認識している限り理性がそれに異を唱えることはなかった。
少年はこの瞬間、理性とは本能の奴隷でしかないのだと感じていた。どれだけ本を読もうとも、どれだけ高名な博士に師事しようとも、どれだけ多種多様な人生経験を積もうとも、人間が人間である限り本能に抗った感情を抱くことはできないと認識した。
果たしてそれが正しい解釈なのか、或いは誤った解釈なのか。唯一絶対の正しい解釈は存在しないかもしれない。しかし、一介の人間でしかないクオンがこれだけ対等に仲間として認められているという前例があることを考慮すれば、少年の抱く感情が須く人類の総意であるとは言えないかもしれない。或いは、クオンやアルバートといった逸脱者以上の領域に至った存在だけがアルピナと対等に接することができているだけで、それ以外の一般庶民ではこの少年と同じような態度をとるのかもしれない。
どちらにせよ、それを証明するのは非常に困難であり、そもそも大して重要な問題でもない。その為、少年を除くこの場にいる誰もが、そのような些末事に意識の一欠片すら向けることはなかった。
「アルピナ」
「ああ、クオン。雑談は終わったようだな」
両者が目線を合わせることはない。両者とも、その視線は眼下に座り込む少年へと向けられており、金色の魔眼がその魂の深奥まで見透かそうと妖しく輝かせる。
「その子は? お前にしては随分気になっているようだが……」
「君も既に気が付いているのだろう?」
ああ、とクオンは首肯する。それはクオンだけでなく、スクーデリアもクィクィも同様だった。その少年から漂う違和感は、聖眼や魔眼、龍眼と呼ばれる、所謂神の子が持つ特殊な瞳を介することで容易に認識できる。瞳を用いることで視覚化される魂に刻み込まれたそれは、クオンがこれまで経験してきた短い旅路はもとより、永々無窮とも称される生を生き抜いてきたアルピナ達ですら前例を知らないものだった。
クオン及び悪魔三柱が肩を並べて少年を見下ろす。外側から見れば、番長に率いられた不良娘達が小心者の少年を脅迫しているようにしか見えない非道な光景。しかし、彼女達にそんな意図は一切なく、ただ無意識の奥底に湧き上がる違和感と警戒心に由来する行動でしかないのだ。
「それで、何かわかったのかしら?」
「いや、これから話を聞くところだ。先に進めても良かったのだが、後から君達に説明するのも億劫だからな」
さて、と改めてアルピナは眼下の少年を見据える。決して威圧しているわけではないが、彼女本来の傲岸不遜で冷徹な性格が災いしているのか、少年はすっかり怯え切っている様だった。或いは、全く赤の他人とはいえ自分を襲撃していた男を無残に殺害した張本人が眼前にいるという恐怖かもしれない。クオンとしては、寧ろ後者の方が可能性としては高いだろうとすら思っていた。悪魔の仲間として行動を共にしている内に心が悪魔寄りに変質してしまったため一瞬気付かなかったのかもしれないが、仮に自分の眼前で同様の事が発生したら同じように警戒と恐怖に身を固めるだろうと確信した。
「脅威が去り新たな脅威が襲来した、と君は警戒している様だが、ワタシ達は君に危害を加えるつもりはない」
声色はその外観に違わず可憐ながらも、口調と覇気はどうしても人間離れした冷酷さを隠すことができない。当然、安心するように言ったところで少年が素直に従うはずがなかった。
それでも、少年は理性でその恐怖を打ち消す。眼前の少女たちから漂う非人間的な根源的恐怖で四肢は震え、今にも意識が飛びそうな感覚が脳を襲う。それでも、喫緊の生命の危機から救ってくれたのは他でもない彼女達であることは疑いようがない事実。今ここで恐怖に支配されるというのは、恩をあだで返す様な愚行であることを少年は理解した。
故に、少年は震える四肢に理性で力を込めて徐に立ち上がる。栗色の瞳が鋭利に輝き、その気丈とした佇まいをより一層確実なものとして補強している。
「えっと……助けていただき……ありがとうございました」
おどおどとした、しかし尻すぼみにはならない口調で、少年は礼を口にする。その様は、悪魔を前にした人間としては至って普通な反応なのでは、と思ってしまうほどに自然体であり、特別怪しい点は見受けられなかった。言ってしまえば、アルピナを前にして対して臆する様子を見せなかったクオンの方がよっぽど怪しいほどだ。
しかし当然、この少年はアルピナ達が悪魔であることは知らない。その上、アルピナ達も自分達が悪魔であることを明かすつもりはなかった。クオンのように悪魔として呼び寄せた訳でもなければ龍人のように悪魔と得なる存在でもなく、アルバートのように悪魔としての立場が必要となる訳でもないのだ。余計な不信感や恐怖心を煽らないためにも、偽りのペルソナは必須だろう。
「ほぅ、恐怖に打ち勝ったか。そしてその魂。やはり、君はただ者ではないようだな」
「あまり自分の世界に入りすぎるな、アルピナ。 あー、えっと……君、名前は?」
一人で悟ったように呟くアルピナに、少年は困惑の顔を浮かべている。それを察知したクオンは、同じく困惑の顔を浮かべながらも少年に問いかける。このままでは何時まで経っても話が次に進まない様な嫌な予感がして止まなかったのだ。そして何より、微妙な空気になるのを未然に阻止しておきたかったのもある。それが決して悪いわけではないが、しかし互いに不信感を募らせている現状では、少しでも気まずい空気を打ち払っておきたかったのだ。
しかし、クオンが望んでいた長閑で朗らかな空気が訪れることはなかった。クオンの問いかけに、少年は歯切れの悪い口調で申し訳なさそうに答えを返す。
「あの……ごめんなさい。僕……自分の名前が分からなくて」
「名前が分からない?」
「はい。名前だけじゃなく、何も覚えてないんです」
記憶喪失。四人の脳裏に浮かんだのは共通の仮定。客観的な診断がある訳ではないが、本人の証言から考察するにその過程はほぼ間違いなく事実と言って過言ではないだろう。
次回、第131話は2/5 21時頃公開予定です。