第128話:男と少年
【輝皇暦1657年7月10日 プレラハル王国南方の平原】
背丈の低い草花が一面に分布し、その間を暖かい風が吹き抜ける。点在する高木の枝葉が葉擦れ音を奏で、大小さまざまな鳥達が澄み渡る青空の中を遊泳する。その背後では日輪がその存在感を誰よりも主張し、燦々と照り付ける陽光が大地を満たす動植物たちの成長を促進させる。
一見して平和な日常。天使と悪魔の抗争や聖獣による人間社会の襲撃とはまるで縁がないような長閑な風景。この日常が続けばどれだけよかっただろうか、この日常が最後に訪れたのはいつだっただろうか。表面的な平和の裏に蠢動する悪意は、完全な部外者である人間達から手ごろな平和すらも奪い去って久しいのだ。
そんな平原の片隅では、クオン、アルピナ、スクーデリア、クィクィが魔力を放出させながら空を飛ぶ。それぞれが瞳を金色の魔眼に染め変え、全身に受ける風で髪を柔和に靡かせていた。レインザードの戦いでさらに魔力との適合性がクオンの飛行能力も安定し、もはやダ・ダーグも不要になった彼らは横並びで空を飛ぶ。
彼らがいるのは王国の南方。大洋と面するその地方は、王国の中でも他の方角とは一風変わった情緒を見せてくれる。何処からか潮騒の調べが届き、クオン達の耳を癒す。そして、同時に運ばれてくる磯の香りが鼻腔を満たすことで、彼らの目的地がもう間もなくであることを教えてくれていた。
地上を往来する、馬を駆る人間達の瞳に彼らの姿が映る事はない。或いは映っていてなおそれを認識することはできないのである。魔法による認識阻害は非常に強力であり、微かな空間の揺らぎすら生じさせることはない。誰もがその空をただの空として認識し、よもや超常の存在である神の子が眼鼻の先に存在しているとは夢にも思わないのである。
それでさ、と空を舞う悪魔の一柱が問いかける。緋黄色の髪を風に乗せ、可憐で稚い相好を辺り一面に振り撒く彼女クィクィは、純粋な感情に満ち溢れた声色を曝け出して残りの悪魔達に振り向いた。
「これから行く町ってどんなところなの?」
悪魔の歴史は古い。それこそ人間、即ちヒトの子が神の手により創造される遥か以前から存在する。そして何より、ここ10,000年ほど悪魔と人間との間の交流は閉ざされていた。その為、現在の人間社会に対する認識や知識が欠落していても何ら不思議ではない。
「今から行くのはベリーズという港町だ。まぁ、特筆して何かめぼしいものがある訳ではないがな」
一行の中で唯一の人間であるクオンは、持てる知識で答える。尤も、ベリーズに行くのは初めての経験なので大した知識もないのだが。
「それより、これから探すヴェネーノという悪魔はどんな悪魔なんだ?」
「ああ、ヴェネーノはワタシ達と同じく神龍大戦を生き延びた五柱の悪魔の内の一柱だ。ただワタシ達と異なり比較的若い悪魔だ。恐らく、今の君といい勝負ができるだろう」
ふぅん、とクオンは納得したように頷く。脳内でその姿形をイメージすることはできないが、その保有する魔力量は朧気ながら理解できた。それと同時に、そんな悪魔を封印できるほどの天使の正体に僅かな警戒心を抱いていた。
「ねぇ、そろそろ地上に降りた方がいいんじゃないかしら?」
「ああ、そうだ……ん?」
スクーデリアの促しに理解を示したようにアルピナは頷く。しかし、その最中、視線の中央に奇妙な違和感を覚える。それは、一見して人間と人間の交わりのようにしか見えない。だが、その魂を見透かすことができる魔眼により、その内部に燻る悪意を詳らかにする。
「どうした、アルピナ?」
「あの人間……少々気になるな……」
そういうと、アルピナは独り地上に向けて降下する。スクーデリアやクィクィもそれに続き、その瞳は真剣そのものだった。一切の油断なく、しかしただの人間相手にこれほどの警戒の糸を張るのは異常な事だとクオンは察知していた。
アルピナは、そのまま無言で地上に降りる。ふわり、と音もなく地に足を着け、コートの裾が柔らに揺れる。スカートの下から覗く雪色の大腿が陽光を受けて眩く輝いた。そして、彼女は無言で魔法の認識阻害を解除する。
青い差し色が入った肩程に伸びる黒髪が風に乗って靡き、同じく青い宝石のような瞳が美麗に輝くことで彼女の可憐な相貌が一層映える。
「な、なんだ貴様はッ⁉」
虚勢を張った、そして同時に頭の悪そうな男が小さなナイフを片手に声を荒らげる。彼の手が届く距離にはフードを目深にかぶった少年が背中を丸めて恐怖に震えている様だった。
しかし、アルピナは無言で男を見据える。無感情の瞳を動かさず、同時に魂から微量の魔力を零出することで男を威嚇する。外見と威圧感の倒錯した感覚は、男を却って萎縮させ、しかし後に引けなくなったとばかりに強引に詰め寄る。
「ほぅ、逃げずに向かってくるのか」
「うるせぇ! 見られちまった以上、お前を見逃すわけにはいかねぇんだよ!」
男はナイフを振りかぶる。そのナイフで少年に何をしようとしていたのかは定かではないが、殺傷能力がある武器を振りかざすということは、それ相応の危害を加えようとしていたことは確実。しかし、ただの人間には致命傷となり得るその攻撃もアルピナを前にしては児戯にも満たない行為へと成り下がる。どれだけ力強く刃を突き立てる。
「あっ? 刃が通らねぇ? どうなってんだ?」
「たかが人間如きがワタシに傷を負わせられるわけがないだろう。ところで、その少年を君はどうするつもりだった?」
アルピナは、男の顔を鷲掴みにして持ち上げる。ギリギリと頭蓋骨が軋音を奏で、苦痛に歪む相好から男は言葉にならない声を零している。しかし、それを見たところでアルピナの心は一切痛むことはない。ヒトの子を管理する立場として悪事を働く者に対して罰を与えることは当然の義務であるのだ。
アルピナの問いかけに対して、男は何も答えない。或いは、苦痛が強すぎて答える余裕すらないのかもしれない。当然アルピナもその過程には気が付いているが、冷酷な加虐的思考を本能として抱いている彼女はその行為を止めることはしない。寧ろ、答えが聞こえないことを言いことに更なる追撃すら考慮されている始末だった。
「どうした? まさか、言葉が通じない訳ではないだろう?」
冷たい魔眼を輝かせて男を甚振るアルピナ。しかしその腕を、彼女のすぐそばに降り立ったクオンが優しく掴む。
「その辺にしておけ、アルピナ」
「止めるつもりか、クオン?」
口では抵抗するそぶりを見せるアルピナだったが、しかしその手は速やかに下ろされて男を解放する。疼痛から解放された男は、地面にうずくまったままアルピナから数歩後ずさる。汗を浮かべ、恐怖に相好を歪めたまま、瞳孔を大きく見開いていた。
そんな彼の後ろにはクィクィが立っており、後ずさった彼と軽く接触する。一体何にぶつかったんだ、とばかりに男は振り向くと、頭上から可憐で稚い笑顔を浮かべる彼女に見下ろされ、恐怖とも慈悲とも取れる感情に魂を揺さぶられる。
さらに、彼女のすぐ脇からスクーデリアが徐に歩み寄って彼を見下ろす。氷の女王のような瞳と美麗で気品ある佇まい。それらはその男の魂を萎縮させるには十分すぎるほどで、言葉を交わすまでもなく戦意は完全に消失させられてしまう。やがて意識を手放した男は、その場に崩れ落ちてしまうのだった。
「どうするんだ、その男?」
クオンは、静かに問いかける。しかし、口では疑問を呈しつつもこれから起こるであろう出来事は朧気ながら理解できてしまう。それでも、それに対して恐怖を抱くことはない。悪魔と契約を結び、悪魔とともに天使と戦い続けた結果、その心は人間よりも悪魔に近くなってしまったのかもしれない。確証がある訳でもなければ、そもそも彼自身それを認識していない。それでも、その可能性が僅かに感じられる兆候なのは確実だった。
「この男などどうでもよい。ワタシが用事があるのはその少年だ」
アルピナは男を適当に放棄しつつ、近くで蹲る少年へ振り向く。金色の魔眼が一層輝き、魂の最奥部まで見透かすような蛇の如き鋭利な眼光を放っていた。
次回、第129話は2/3 21時頃公開予定です。




