第109話:生命の樹
クィクィは、思考の海に深く潜り込んでいた意識を手繰り寄せる。当時の状況を懐かしむように微笑むと、その金色の魔眼で眼前にいる二柱の天使を見つめた。濃密な魔力が迸出し、臨戦状態ではないにも関わらず、心身が震えるような威圧感を零す。倒錯的に瞬く天真爛漫な相好のお陰で、イルシアエルもテルナエルも絶えることのない不安と恐怖に冷汗を流す。
「昔は色々あったからね。それこそ、キミ達が二回目の神龍大戦なんて起こさなかったらまた違った未来になってたかもしれないよ」
「さぁ、どうだろうね? それじゃあ、僕達はそろそろ行かせてもらうよ。またどこかで会うと思うけどね」
そういうと、イルシアエルとテルナエルは遠くの空へ飛び去る。琥珀色の空に暁闇色の渦を発生させると、二柱の天使の姿は見えなくなった。魔眼を凝らしてもその魂は何処にも見つからなかった。
クィクィは小さく息を吐くと、金色の魔眼を閉じる。彼女が本来持つ深く落ち着いた緋黄色の瞳に戻った。魂の外部に漏出していた魔力が魂の内奥に帰還し、張りつめる緊張感と殺気は霧散した。
……過ぎ去った過去に対して理想に糊塗された仮定を持ち出してはいけない、だったかな? まぁ、細かいことはいいかな? それより、スクーデリアお姉ちゃんと合流しなくちゃ。
やれやれ、とばかりにクィクィは息を零しつつ上空を見上げる。琥珀色の空が零落し、懐かしい龍の力が空気に溶け込んでいる。暫く意識を失っている間に随分と悲惨なことになってしまった、とクィクィは重い無言を重ね合わせた。
『スクーデリアお姉ちゃん? 終わったよ!』
精神感応でスクーデリアに呼びかけるクィクィ。その様はまるで娯楽施設で遊ぶ童のように可憐で、先程までの戦闘で見せていた加虐的趣向の残り香はどこにも感じさせなかった。
『そうみたいね。お疲れ様、クィクィ。丁度良かったわ。私も手が空いたところなの。町の中央で合流しましょう』
『うん、わかった』
満面の笑みを浮かべて了承するクィクィ。純粋無垢で一切の迷いを過らせることなく空に飛び立つと、音を置き去りにするような超速で移動を開始した。衝撃波を撒き散らし、周囲に対する配慮を一切見せることがないクィクィの飛行により、元々廃墟同然に崩壊していたレインザードは一層の破壊を被る。
唯一良かった点を挙げるとすれば、その速さ故に人間の瞳には映る事がなかったという点。戦場の直中である地上を駆けるアエラ達人間の部隊は、突如発生する衝撃に対して困惑しつつ身を護る事しか出来なかった。
「何、今の⁉」
吹き荒れる瓦礫の嵐から身を護りつつ、アエラは叫ぶ。身を屈めて頭部を保護し、しかし視線は絶えず動かすことで周囲を警戒する。それでも、一介の人間でしかない彼女の瞳と知識では、その原因を断定することはできなかった。
一方、彼女と行動を共にしているアルバートは、同じく身を護りつつもその原因を朧気ながら理解していた。もともと英雄として人間の領域から逸脱していた上に、スクーデリアとの契約が相まってその実力は人間が考えうる常識を軽く凌駕していた。
朧気に認識できるようになった魔力を探しつつ、残像程度にしか認識できなかったクィクィの姿を捉えた彼は、アエラ達に悟られないために心中で呟く。
クッ……。カーネリア……いや、カーネリアじゃないんだったか。まったく、俺の知らない事ばかりだな。
常識外れな体験の連続に困惑しつつ、アルバートは心が折れないように理性で踏ん張り続ける。やがて収まる魔力の嵐を見届けると、顔をあげて小さく息を吐いた。
「とにかく急ぎましょう。ここから先、戦いが激化しないとも限りませんので」
「そうね。急ぎましょう」
アルバートとアエラ、そして彼女に率いられた兵士達は、戦場を駆け巡る。適度に襲い来る魔物達を討伐しつつ、彼女達は町の南方へ向けて駆ける。
そんなアルバートの影では、ルルシエが肉体的死を迎えた魔物の魂を神界へ送り返しつつアルバートの戦いを支援していた。
『ねぇ、アルバート。そんなに急いで大丈夫?』
『あぁ、まだ大丈夫だ。それより、戦況はどうなってるんだ?』
魔眼を持たないため目の届く範囲でしか戦況を把握できないアルバートにとって、ルルシエの存在は戦闘の相棒としてこの上ない存在だった。何より、たとえ新生悪魔とは言えその実力はアルバートより数段上。圧倒的強者に守られているという安心感が、彼の心に積み重なる負担を軽減してくれていた。
『クィクィとイルシアエル達の戦いは終わったみたい。それと、町の四隅にある避難所にルーク達が手分けして向かってるってさ』
『なるほど。つまり、俺達はそれが終わるまでは住民達の救出に専念すればいいわけか』
『うん。もう大多数の人間達は避難できたみたいだから、もうひと踏ん張りよ』
頑張って、とばかりにルルシエはアルバートは声援を送る。アルバートの瞳にその姿は映らないが、その可憐な双眸は容易に想像がつく。少し恥ずかしそうにアルバートは応えると、改めて目的のために力を振り絞る。
『それにしても、魔物をこんなに消費しても良かったのか? 一応、同族だろ?』
『まぁね。でも、魔物って悪魔の成り損ないみたいな側面が大きいし、しかないよ』
『成り損ない? どういうことだ?』
悪魔の生態について何一つ知識を持たないアルバートは、純粋な疑問で尋ねる。そもそも、今回の一件が生じるまで悪魔の存在は神話上の存在だと信じて疑っていなかった。どちらかと言えば無神論者寄りの彼らしい思考回路とも言える。
『えっとね、古い悪魔と新しい悪魔で成り立ちが違うんだけど、一先ず私の場合に合わせて話すよ。まず、各世界に存在する魔界には生命の樹があるの。それで、その樹になった果実が完熟した時にそれが新しい悪魔になるんだけど、六割くらいの確率で失敗するの。その失敗した成り損ないが魔物になるって感じ。因みに、天使の場合は天界にある生命の樹で同じように生まれるのよ』
『失敗する可能性の方が高いのか』
うん、とルルシエは静かに頷く。アルバートが創造していた以上に過酷な境遇に対して、彼は思う様な答えが出せなかった。しかし、無理に言葉を取り繕って失言するよりも、無言の理解を示す方がルルシエにとってもありがたかった。
さて、とルルシエは話を切り替える。湿っぽい空気を吹き飛ばすような明るい態度に、アルバートは無意識に微笑む。しかし、アエラに不審がられないようにポーカーフェイスを取り戻すと、その場に立ち止まる。
『そろそろ町の南端みたいだね。あんまり避難所に近づきすぎると、ピジョットとビルディアがいるから、あんまり近づきすぎないでね』
『了解』
アルバートは、腰に携えていた剣を抜く。スクーデリアから預かった魔力を剣に付与し、その切れ味と殺傷能力を上昇させる。何度も戦っている間に、僅かにだが魔力操作が身に付きつつあった。
そんな彼の様子に合わせる様にアエラ達も剣を抜くと、周囲に対する警戒を一層張りつめる。そして、それに合わせる様に魔物達が姿を現し、彼女達の前に立ち塞がった。
「いくよ、皆!」
鼓舞するようにアエラは声を張り上げ、それぞれがそれに応える。そして、一秒でも早く平和を取り戻そうと藻掻く人間達による、魔物の討伐戦が始まった。
そんな彼女達の戦いを、ピジョップとビルディアは避難所の近くから見学していた。存在を秘匿しつつ、避難所に集まった無垢の人間達の魂を洗浄する作業は粗方終了していた。幾らルシエルの精神支配と言えども、残滓程度にしか介入していなければ流石の彼らでも容易な作業だった。しかしそれでも、スクーデリアのように他の作業と同時進行で且つ遠隔操作で行うのは不可能であり、改めて彼女の技量には畏怖の念を送らざるを得ない。
次回、第110話は1/15 21時頃公開予定です




