第1話:神様
【輝皇暦1657年6月5日 プレラハル王国マソムラ】
「なぁ、クオン。神様ってのは本当にいると思うか?」
ラム酒を片手に、紅潮した顔面をこれ見よがしに主張する無精髭を生やした壮年の男は呟く。果たしてそれは問いかけなのか、或いは単なる独り言なのか。返答を待ち望んでいる訳でも無く、酒の力に身を任せた遊び言葉なのかもしれない。
クオンと呼ばれた齢16の少年は困惑の顔色を浮かべる。黒い髪は吹き込む夜風に煽られて微かに揺れ、端整とも愛くるしいとも捉えられる色白な顔立ちが崩れる。
急に何を言い出すんだ、と水を飲みつつ彼は纏まり切らない言葉を徐に紡ぐ。
「なんですか、急に? しかし……どうなんでしょう? それこそ神話だとか聖典にその名が陳述されることはままありますけど……果たしてそれが実在するか、となりますとやはり個人の解釈次第なのではないでしょうか」
ここでいう神話や聖典とは所謂プレラハル神話の事である。今日、プレラハル神話として知られている神と神の子、そして人間達の物語は王国成立の遥か昔である草創期より口承又は文字形式で伝えられてきた。
「かもしれねぇな。神様ってのはある種、人間が創り出した責任の代行者だ。良い結果なら神様のお陰、悪い結果なら神様のせい。そうでもしなきゃ、やってられねぇからな」
だがな、と酒をテーブルに置く。
「何かを創り出すにはそれ相応の契機が必要だ。つまり、神様を創るにはそれに見合うだけの何かを見たり経験したからだろう。となると、それ以外の天使や悪魔ってのも強ち嘘じゃねぇかもしれねぇな」
違うか、と熱弁する男に対しクオンは冷ややかな視線で彼を見据える。それは軽蔑なのか、或いは単なる呆気なのか。恐らく後者なのだろう、と思いつつ彼は溜息を零す。
「……師匠、珍しく酔ってますね」
「かもしれねぇな」
豪快な笑いを飛ばしつつ、男は再び酒を口に運ぶ。脈絡のない会話に意味をなさない議論。言葉の頭と尾が連続しない不完全な会話は、彼が素面ではない事の何よりもの証左だろう。
その紅潮した顔は酩酊した故のものか、将又蝋燭の灯に照らされているが故のものなのか。飲酒の習慣がないクオンには判別しかねるものだ。
しかたないなぁ、と内心で溜息を漏らしつつクオンは話を転換する。
「ところで、明日は朝から都の方に行かれるのでしょう? そんなに飲んでも大丈夫ですか?」
「ふんッ、心配ねぇよ。何ならお前が行くか、クオン?」
「えッ⁉ 俺が、ですか? また随分急に……」
クオンはすぐわきに併設された工房に目をやる。そこには完成・未完成を問わず種々の武器防具が並ぶ。
クオンの視線に釣られるように男もまた目線を動かすと小さく息を吐いた。
「お前ももう16……だったか? そろそろ独り立ちの準備も必要になる年頃だ。いつまでも揺り篭の中で抱かれてちゃ成長も頭打ちだろう。成長に合わせて環境を変える。子育ての基本だろ? 俺は留守番しとくから明日は頼んだ。初めてのお使いだと思って気楽にやってくれ」
そう言うと残りの酒を一気に飲み干し、その場に突っ伏すとそのまま眠りに落ちていった。
呆然と座りつくすクオンは、対面で眠りこける師匠をただ見つめる事しか出来ない。仄かに蝋燭の灯りが揺れる室内には、男の鼾声だけが反響する。
えぇ……、と言葉にならない声を発しつつ、引き下がり様のないクオンは彼の背中に優しく毛布を掛ける。そして、卓上の手燭を持つと自身の寝室へ戻るのだった。
翌日、クオンは朝の支度を済ませると外に出る。そこには荷物を満載にした馬車が既に準備を済ませていた。クオンは速歩でそれに近づくと、徐に脚を掛けて御者台に座る。荷台を振り返ると、そこには師匠が作製した種々の武器防具が詰め込まれていた。その中に幾つかクオンが作製したものも含まれているが、しかし師匠のそれとは明確な差異があることを彼自身知悉していた。
これらの商品は、都の業者へと渡された後そこから王都に駐在する兵士達へと支給される。
文明の発達に伴う人間の生活圏の拡大は、人間の文化文明に更なる発展と飛躍を与えた。しかし、同時に自然世界の脅威との攻防が生じる発端でもあった。こうした自然世界からの猛威、即ち災害や猛獣から当事者を守る為に作製されたのがこれらの武器防具だった。
「それじゃあクオン、後は適当にやってくれ。向こうには伝書飛ばしてるから俺がいなくても何とかなるだろうからな」
深い酔いから覚めた師匠は、二日酔いから生じる頭痛や嘔気と格闘しつつそれでも笑顔でクオンを見送る。弟子にして養子でもある彼の成長は、実子の成長を見守る父心にも似た境地なのだろう。
「はい。行ってきます」
クオンが手綱を打つと、馬は徐に歩を進める。車輪が回ると荒れ気味の道が踏み締められ、その度にクオンの身体は上下に揺れる。相変わらず酷い揺れだな、とクオンは振り返る。既に師匠の姿はなく、二人で暮らす家がどんどん小さくなり、やがて遠くの彼方へと消え去った。それを見届けたクオンは、改めて進行方向を向き直りつつ息を吐いた。
「よしッ、頑張るか!」
声に出して気持ちを引き締めたクオンは、しかし決して空回りする事無く冷静を保ちつつ手綱を握る。初めて与えられた一人仕事。只のお使い業務といえども手を抜かず、最後まで完遂する事をクオンは改めて決意するのだった。
【某刻某所】
群青色に包まれて、宵闇の中を幾億の星々がその輝きを放つ。前後左右に加え上下方向、即ち三次元的空間を取り囲む様に広がるそれは、そこにいる者の平衡感覚を失調させる。
そこは、蒼穹と呼ばれる生命の生息範囲から隔絶された亡地。人間も猛獣も虫も微生物も天使も悪魔も神様も、誰一人として存在しない空間。あるのはただその空間を構築する為だけに存在する微小な原子のみ。それすらも“世界”と比較すれば極僅かな量。全て搔き集めても羽虫一匹構築する事すら出来ない量のそれが存在するだけ。
そんな無の空間に、一人の少女が浮かぶ。濡羽色に蒼玉色のアクセントが入った髪は柔和な肩程に真っ直ぐ伸びる。猫の様に大きな目は僅かに吊り上がり、髪に入った差し色と同色の青い瞳が蛇の様に鋭利に輝く事で、愛くるしさと勇猛で冷徹な様を両立させる。黒を基調としたその服装は肩に羽織ったコートと共に彼女を凛々しく包み込む。漆黒のミニスカートとそれと同色のロングブーツから覗く雪色の大腿は満天の星々より輝かしい。
存在しない場所に存在する彼女は、その場に浮かび、当てもなく周囲を見渡す。
「やはりこの“世界”にもいなかったか……。しかし、あれから10,000年しか経っていない。流石にまだ早かったか……ん?」
満天の星々の様に浮かぶ無数の“世界”の果てに少女は何かを知覚する。彼女は全神経を集中させると青い瞳が金色に輝き、その正体をはっきりと認識する。
そして、それこそが自身が10,000年追いかけ続けていていた目的と相違無い事を確信する。
「フッ、まさかこれほど早く再会できるとはな。しかもこの方角……灯台下暗し、とは成る程的を射た言葉の様だ」
さて、と少女は小さく息を吐く。風の無い空間でコートとスカートが揺れる。チラリと覗く御御足は、扇情的な雪色で無の空間を魅了する。
「10,000年振りの帰還だ。精々、このワタシを楽しませてみせろ」