淡々残火
捨てたはずの夢が、こちらを見ている。
そう言えば、聞こえがいいかもしれないが、実際はちり紙のように、ゴミ箱から溢れたものが、たまたま目にとまっただけにすぎないというのが、正しいのかもしれない。
聞こえもよくなければ、ただただ、不快あるいは、不恰好というものだ。
取り繕う必要もないのに、格好つけるなんてどれだけよく見られたいんだと思うが、思い直し、正直に言うのだから、我ながら中途半端な気持ち、生きざまである。
厨二の頃のクセが未だに抜けていない、この若干の見栄ぐらい、許してほしい。
捨てたはずの夢というのは、結局のところラブレターのようなものだ。
今時流行んないよと、言いつつ、伝統工芸品のような美しさを備えているようなものだと思えば、少しは良い印象ぐらいは残るだろう。
実際は前述したとおり、ろくでもないし、ガラクタよりも無価値かもしれない、
何せ夢として輝いていたのは、人生の半分よりも、尚短い時間なのだ。
ただ誤解しないでほしい。
それは確かに夢として確かにこの手に持っていて、そして捨てたものなんだと言うことは、自覚しているし、そこら辺だけは汲み取って、わかってほしい。
人気者になりたかった。
うん、よくある話でよくある夢。
数年に一度は夢見てしまうよ、簡単に手に入りそうで、こっちからしたら、砂をつかむように何粒か残ってれば良いという具合の夢。
面白い話や、流行りの話題、格好いい靴や、スポーツを習ってみたり、音楽をファッションのように着飾って見たりもした。
愛想を振るまったり、人付き合いを良くしてみたり、人付き合いのため、お金を稼ぐために働きすぎてみたり、そうして人気をとるためには、何でもした。
いや、何でもしたと言うと語弊がある。
途中で挫折したのだから、何でもなんてしていないだろう。
お金で繋いだ人気なんて、何も意味がないだとか、何も道徳的な事などではない。
夢なんてものは、目指すうちに才能と努力と環境に、打ちのめされるものだと知っていた。
サッカーや野球選手のプロになれるなんて、一握り、才能のなさ、環境の悪さ、努力の量
そんなものが、怒濤のように押し寄せ、それを振り切るものだけが、ゴールできる。
どちらかと言えば、そうまでしなないと手に入らない事に恐怖した。
あまりの遠さに、頭がおかしくなったのかとおもった。
そして遠く迄走り続けたとして何歳になっているんだ、いつまでも走り続けられる訳ではない、そうして残るものは何なんだろうか。
不安を振り払えるだけの、自信も根拠も、憧れも努力も持てないまま、エネルギーが枯渇する前に終わったのだ、これが何でもしたなんて言えるはずもない。
捨てたら楽にはなった。
ただプログラムのように、決められた台本のように、なにかをなぞるだけの人生。
出来そうなことしかやらないような人生。
不安を振り払えるだけの努力は出来る。
安全地帯に留まるだけの風景。
そんなものに意味はあるのかと、捨てたはずの夢が、こちらを見ている。
まだガムシャラに生きれる歳だ。
一度きりの人生だ。
夢を追いかける素晴らしさ。
どちらが人として優れているかな、
熱く、燃えるように
捨てたはずの夢が、こちらを見ている。
もう一度拾い手にとってみようか。
二度と見てくる事もないように、燃えて燃えて一緒に燃え尽きて、今度は、燃えかすも残らないようなエネルギーを使ってみようか。
そんな自殺じみた事を考えるわけもない。
あれは手にとらなくて、いい。
プログラムのような、台本のようななにかをなぞるだけの人生で、人であったような事を思い出すだけの、懐かしさを感じるだけの熱さを感じる距離でいい。
捨てたはずの夢が、こちらを見ている。
だからこちらも、懐かしむだけでいい。
ごみのようなガラクタだと捨てた夢なのだから、もう一度拾い宝物をみるように大事にすることなんてないだろう。